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心のリハビリワークの実践~私の場合~

私は大学を卒業し、一年半、精神科デイケアに通って療養した後、二十五歳でパートの仕事に就きました。その職場は田んぼの中にある小さな工場(こうば)でした。職員は親方がひとりいるだけでした。親方は四十五歳で独身だと言いました。

仕事内容は鶏糞などの園芸用肥料の袋詰めでした。(ちょっと仕事内容を簡単に書きますが六行ほどお付き合いください)まず、段ボール箱を組み立てます。機械のタンクに肥料の原料を投入します。機械から肥料を一定量出してビニールの袋に入れます。袋の口を溶かして閉じます。たくさんの袋に入った肥料を段ボール箱に入れていきます。段ボール箱の蓋をガムテープで閉じます。閉じた段ボール箱をパレットに積みます。親方が箱の積まれたパレットをフォークリフトで移動させます。この繰り返しです。工場の窓は閉じ,粉塵が舞い、そのため花粉用のマスクを着けるのですが、夏は暑くてサウナのようになり汗が出てマスクがピターッと口を覆って呼吸が苦しくなります。冬は暖房がなく寒く、ビニール袋を扱う手はあかぎれになります。こう文章で書くとたいした仕事ではないように読めるかもしれませんが、かなりきつい仕事でした。親方も「ここの仕事に耐えられるなら、どこに行っても通用するよ」と言っていました。あとで振り返って見て思うのですが、ここでの仕事がその後の私の基礎になっていたと思います。以下に私がこの仕事に就いて何を考えながら働いたかを書きます。

私は自分の頭が病んでいることを知っていました。自分の理性に自信がありませんでした。だから、働くための理性は親方に預けました。私は自分が親方の奴隷で、命令通りに動く機械になったと意識しました。これは私自身が考えた意図的な発想です。車いす生活をしている人は階段を登らねばならないとき、誰か手足の健康な人の力を借りるでしょう。眼が見えない人はそのことで困ったときに眼の見える人の力を借りるでしょう。それと同じで頭が病んでいるときは病んでいない人の頭を借りればいいと思いました。これは精神を病んでいる人が使えるひとつのテクニックだと思います。理性を預けるには親方を信用しなければなりません。さいわい親方は尊敬できる人物でした。脳みそは親方の中にあり働く体は私である、そう考えました。そして、それを続けていくうちに、いつか理性を取り戻そうと思いました。ここで理性というのは、物事を考え判断し行動に移す主体のことです。

私は意識して習慣の奴隷になりました。心(あるいは頭)が病んでいるならば、体やその他周囲から鍛えていけばいいと考えました。それが生活習慣を鍛える、という発想につながりました。朝起きて、出勤し、働いて、昼に弁当をプレハブの事務所で食べて、机に伏して昼寝して、昼休みが終わったら、午後働いて、夕方帰り、夜は読書。これを繰り返すことで自分の生活習慣に社会性を持たせていく計画でした。これは人間というものは習慣でできている、という高校生のときの発病直後に感じたことから得た思想です。私は小学生の頃から毎日学習机に向かい勉強するよう躾けられました。高校ではみんな大学を目指していました。私は大学に興味はなくマンガ家になりたいという夢を持っていました。しかし、周囲は、大学に行くのが良いという空気で満ちていました。私はそれに抗いマンガのことばかり考えていました。それでも学習机に向かってしまう自分がいました。自分は躾けられた犬のように勉強させられている、と感じました。そのうち将来マンガ家になるという自分と現実の自分との区別がつかなくなり統合失調症を発症しました。発症してからは、自分の身についた「当たり前」に抗いました。なぜ、机に向かい教科書を開いて鉛筆を持つのか?私は鉛筆を持つのを禁じました。なぜ、決まった時間に学校へ行き、授業を受けるのか?私は登校時、わざと遠回りして散歩し何時間も遅刻しました。こうやって自分の生活習慣を破壊していきました。これは私なりの反抗であり真実の探求の方法だったのかもしれません。(結局、私は一年浪人して大学に行きました。周囲の流れに屈服した形でした。大学卒業までの四年間でマンガ家デビューできればいいや、と思いました)

人間は習慣の奴隷であるという考え方は高校生の時に得た着想を大学の哲学科で学ぶことで確かめたひとつの考え方です。私は高校生のときに自分が幼い頃から育んできた習慣を破壊しました。物の考え方の習慣もそれに入ります。ある場面に来るとある思考が働き、緊張してしまう、そんなことが精神的に生き辛さを感じている人の中にないでしょうか?私は精神科医ではないから医学的なことはわかりませんが、物の考え方、思考の習慣によって症状が出るような気がします。これらは変えることができると思います。思考の習慣、生活の習慣を変えれば症状も変わるのではないでしょうか?いきなり大きく変える必要はなく、少しずつ変えていけばいいと思います。私はマンガ家を目指していたため、人の目が気になりました。自分の姿をマンガの主人公として客観的に三人称で見てしまい、いつも緊張していました。誰かに見張られているような気がしました。大学卒業後にマンガ家を諦めたらそれがなくなりました。現実は舞台ではなく、私たちの生活に観客はいないということに気づきました。

しかし、園芸用肥料袋詰めの仕事に就いてからも、舞台にいる自分自身を観客席から見る習慣は続きました。この観客席を破壊し、自分の視点と自分の体が一致しなければいけないと思いました。そのために考えたのが自分を奴隷にすることでした。日常習慣を作りその奴隷となるのです。体の働きに心を合わせていくのです。観客の視線を感じて演技しながら、その役になりきり、しまいには観客の存在を忘れるのです。労働者という役です。私はイキのいい労働者を理想にしていました。多くの人が理想の自分と現実の自分とのギャップに悩んでいると思いますが、私は働くことで徐々に自分を理想の労働者へ近づけて行きました。労働者と言ったのには理由がありまして、労働者(というか百姓)の喋り方はコミュニケーションのリハビリに最適だと思うからです。日本語には敬語というものがありますが、労働者の使う敬語は最低限のものです。私の理想のコミュニケーションは敬語が上手く使えるとかそういうところにはありません。コミュニケーションで最も重視することは、心を通わせることだと思います(これはもしかしたら心のリハビリの最終目標かもしれません)。病んでいる人にとって最初から心を通わせるということは難しいと思います。しかし、それに少しずつ近づけていくことはできると思います。私は病気を隠して就労し、「健常者」として扱われることで自信をつけて行きました。最初は本当に苦しかったですが、親方が尊敬できる人だったので五年間その仕事を続けることができました。そして、次のステップへ進むために(なにしろ給料が安かったので)その仕事を退職しました。それから農業や植木の仕事などの経験を経て現在の介護職にいます。「介護の仕事は大変でしょう?」と人によく言われます。しかし、私は園芸用肥料の袋詰めのことを思うと、介護は楽だと思います。もう介護の仕事を始めて八年が経とうとしているからでしょうか。慣れた仕事は楽なのかもしれません。家族による介護は大変だから年寄りを老人ホームに預けるわけで、その大変な仕事をする介護職は本当に大変な仕事をしているという印象を世間に与えるかもしれません。しかし、労働はどんな仕事であれ大変なものです。私は現在、年寄りとの会話を楽しんで仕事をしています。おかげで、心のリハビリは順調に進んでいます。


以上は「心のリハビリワーク」について私が実際に考え体験したことの一部をまとめたものです。もし「心のリハビリを考える会」を開けたら、他の人からもっと違う考えが出てくるかもしれません。とくに私の「奴隷になる」とか「理性を誰かに預ける」というのは一般的には嫌悪感を抱かれるような言葉かもしれません。しかし、実際、私はそういう考え方を信じて生きて来たのだし、この稿で書いたのはあくまで私の場合であって、他の人がどう考えるかは自由です。ただ、私は「働くことが心のリハビリ」という言葉にこの稿で書いた私の経験を重ねていますが、あなたはどんな感想をお持ちになりましたか?

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