SW大橋勇

1979年生まれ/男/ストーリーライター(小説家志望)/ソーシャルワーカー(社会福祉士…

SW大橋勇

1979年生まれ/男/ストーリーライター(小説家志望)/ソーシャルワーカー(社会福祉士)/統合失調症者にアウトドアを勧める会会長

マガジン

  • 私とアウトドア

    アウトドアを勧めるためのマガジン

  • 山の美学

    山について、文学的に語ることで美学を展開する。言葉により山の素晴らしさを表現する。それに合った写真も掲載する。

  • 哲学論集

    私の書いた短い哲学論文をまとめてみました。

  • 心のリハビリを考える

    統合失調症を発症したらどう生きればいいか。それを共に考えていただくために私が考えたことをまとめたマガジンです。

  • 読むお笑い

    読む漫才、読むコント、など文章で笑いを提供します

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【冒険ファンタジー長編小説】『地下世界シャンバラ』(全部まとめて読むならこちら)

卍  この巨大な大陸の中央にマール国という大国があった。その国の西方、人里離れた山奥に闘林寺という寺があった。そこからさらに西の山奥の辺境にラパタ国という小さな王国があった。さらにそこから西にある山奥に入った洞窟の地下深くに、地下世界シャンバラへの入り口があると言われていた。シャンバラはすべての住民が幸せに暮らす理想の仏国土である。 卍          第一章 闘林寺 一、ライとその父

    • 登山と統合失調症について考えたこと

      私は本日、山に登り、昼食を食べて下山した。 私は統合失調症を患っていて、登山中はいつも頭の中に言葉が飛び交っていて、誰かと会話するように思考しながら歩くのが常だった。 しかし、今日は登りの間はほとんどそのような幻聴みたいな思考はなかった。 昼食を食べているときも、鳥の声が聞こえるばかりで頭の中はクリアであり、言葉が飛び交うことなく、美味しくおにぎりとカップラーメンを食べることができた。私はほぼ治りかけていることを実感した。 統合失調症は治らないと言われている。せいぜい寛解が限

      • 竜爪山随想

        今、竜爪山の中腹、穂積神社境内にあるベンチにて、独り、湯が沸くのを待ちながら、赤飯のおにぎりを食べている。 私は竜爪山には過去に何十回も登っていて、近年では山頂まで登らずに途中の穂積神社で昼食を食べて下山してしまう。 竜爪山は穂積神社より上の登山道は金属製の階段が長く続き面白くなく、山頂の景色がいいかと言えば遠くに清水の港が見える程度で面白くないので、いつのまにか、穂積神社で食事をすると降りてきてしまうようになった。 では何を楽しみに登るかというと、森の中を歩く心地よさを求

        • 午後の高草山に登る

          今日は午前で仕事が終わったので、午後、近場の山である高草山に登った。 この山はしょっちゅう登っている。理由は、近いからというのと、焼津側から登ると焼津の平野を見下ろしつつ登ることができるので高度感が楽しめるからだ。近いからという理由をさらに説明すると、計画を立てる手間が省け、思い立ったときに行けるので、面倒くさがりな私にはちょうどいいのだ。 三時少し前から登り始めた。午後から登るのは初めてである。 いつも登りに一時間かかるのだが、今日は食べ物を持たず荷物が軽かったので五十分

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        記事

          「小説家」という呼称について

          私は小説家になりたい。 と言っても、純文学みたいなやつではなく、物語を書く作家になりたい。 つまり、「物語作家」になりたい。 しかし、物語作家という呼称はあまり一般的ではない。 「ご職業は?」 「物語作家です」 「ああ、小説家ですか」 となるのが落ちだ。 小説家とはそれほど幅広く人口に膾炙している。 他に「作家」という呼称がある。しかし、これは小説家よりも広い。しかし、「作家」も人口に膾炙しているが、人々は結局はその「作家」に小説をイメージする。事実、小説以外を専門とする文章

          「小説家」という呼称について

          時代の中の小説家

          私は小説家を目指している者だ。 以前から平野啓一郎の知識に憧れて、彼の「分人主義」を批判する文章を書いたりしている。 最近わかったのだが、彼の「分人」という言葉は、哲学者ドゥルーズが作ったものだということだ。哲学的に無知だった私は「やっぱりな」と思った。平野啓一郎は「知識人」である。彼のテーマにすることは思想史上の現代的テーマなのだろうなとは思っていたが、なんだ、ドゥルーズか。私にとってドゥルーズは『アンチオイディプス』を読んだがわからず、諦めた哲学者だ。私は高校生の頃から精

          時代の中の小説家

          「書かない小説家」にはなりたくない

          世の中には小説家になりたい人が山ほどいるが、ときどき見かけるのが、書いていないのに「小説家」を名乗る者がいる。 いや、小説を書きたいから小説を志しているのではなく、小説家という肩書きと文化人的雰囲気を纏うことを好む人がいる。 詩を書く者にも、そういうタイプはいる。 マンガ家志望ならば、ベレー帽を被って、締め切りに追われる生活に憧れる者がそうかもしれない。 書かない小説家は書きたい物があるのではなく、ただ、小説家の風貌に憧れているだけだ。そういう人は書くとしたら私小説を書く場合

          「書かない小説家」にはなりたくない

          フォローやスキと承認欲求

          私はこのnoteを始めて以来、毎日、いや、スマホを見る度に、パソコンを開く度に、そのベルのマークを見てしまう。 スキが来ていないか、フォローがついていないか、あるいはコメントが来ていないか、そんなことで一喜一憂している。 それは承認欲求から来るもので、誰かから評価されると気持ちのいいものなのである。 私は昔から承認欲求が強く、現在も小説家になって歴史に名を残してやろうなどと本気で考えている。というかほぼそれが人生の軸になっている。 承認欲求とはそもそもどういうものだろう? 歴

          フォローやスキと承認欲求

          夢敗れた者が、小説家を目指すということ

          私は小説家を目指している四十五歳男性である。 今日は雨で外に行けなかったので、最近書き上げた新作をプリントアウトしてみた。 紙にすると、その厚さから、「ああ、書いたな~」と満足感が得られる。 ところで考えたのだが、小説家になろうとすることはどういうことだろう? このnoteを見ても思うのだが、小説家というのは夢敗れた人たちが最後に行き着く、「夢」なのではないだろうか? そういえば私も少年の頃はプロ野球選手になりたくて、なれそもうないから十四歳でマンガ家を目指し始め、宮崎駿みた

          夢敗れた者が、小説家を目指すということ

          分人主義批判。私はあの人の何を愛するのか?

          作家、平野啓一郎に「分人主義」という思想がある。 「個人」はそれ以上分けられない最小単位ではなく、さらに分けることができ、その分けられたものを「分人」と呼ぶ。例えば、家族といるときの分人、恋人といるときの分人、友達といるときの分人、というふうに私たちは分人という「いろいろな私」を環境に応じて使い分けている。 平野啓一郎はさらにこの思想を踏み込んで、「好きな人」というのは、「この人といるときの自分の分人が好き」と言い換えるとわかりやすいと言う。 これを批判してみたい。 私た

          分人主義批判。私はあの人の何を愛するのか?

          文学脳と哲学脳

          また分人主義批判の記事の下書きを書いた。 読み返して見ると例が多く、論理的な部分が少ない。 ここ数年は哲学書を避けてきた。 一年四ヶ月かけて即興連載小説を書いたり、このnoteをほぼ毎日書いてきた。 脳みそが哲学から文学に変化して来ているようだ。 これは非常に良いことで精神的に健康である。 しかし、平野啓一郎など、小説の外部で、自らの思想を発表し、それを小説化するのはいかがなものだろう?哲学をやりたいのか文学(物語)をやりたいのかわからない。思想を表現したいのだろうが物語でそ

          文学脳と哲学脳

          【詩】一枚の岩

          私は一枚の岩 雨でも晴れても一枚の岩 濡れていても日が出ればすぐに乾く一枚の岩 濡れていても乾いていたときとカタチは同じ 二枚岩であると泣いていた私 醜い岩だと泣いていた私 太陽が照らしてくれた 私の頬はすぐに乾いた 空が明るくとも暗くとも 私はひとつの岩だった 二枚岩でも三枚岩でも 私はいつもひとつの岩だった 多枚岩だと泣いていた私 泣いている私はひとつの岩だった いつもずっと 一枚の岩だった あなたが愛してくれたのは そんな私だったのね

          【詩】一枚の岩

          三千年後の読者へ

          君は私の小説を読んだことがあるだろうか? 私の小説は君の時代まで残っているだろうか? 私は小説家になって、自分の作品が人類の歴史の続く限り読まれ継がれていって欲しいという野心がある。 まあ、そんなキチガイの言葉だ。 今は西暦2024年。 君の時代はまだ西暦が通用するだろうか? 私は西暦2019年から冒険ファンタジー小説を書いて、それが五本できた。 即興で書いたかなり長い実験的なものをいれれば六本だ。 制作速度としては悪くないと思う。 基本一年に一本書いていきたい。 だから、現

          三千年後の読者へ

          トランプ前大統領暗殺未遂とルサンチマン

          今日、仕事場である日本の介護施設のテレビからトランプ前アメリカ大統領が銃撃を受けたニュースが流れた。 耳を怪我した程度だったらしい。 そのとき、年配の介護職員が「なんだ、当たればよかったのに」と笑って言った。 言ってはならない言葉である。 しかし、この言葉の背後にある社会問題が極めて重要である。 つまりトランプ氏は大金持ちのアメリカ大統領候補である。一方、件の介護職員は毎日お年寄りのお尻を拭いて少ない給料でなんとか生きている田舎者である。 もし、介護職員がトランプと同じ収入が

          トランプ前大統領暗殺未遂とルサンチマン

          2024年7月13日、冒険ファンタジー長編小説完成の歓び

          私は2019年から、冒険ファンタジー長編小説を書くことを軸に生きて来た。 そして、2024年7月13日の今日、五作目がようやく完成した。 小説家にとってひとつ小説を完成させることは、ひとつ財産を拵えることと同じだ。その財産とはおカネであるかもしれないし、名誉であるかもしれないし、逆に恥であるかもしれない。 まだ誰にも見せていないので自分だけしか知らない物語がここにある。 四百字詰め原稿用紙換算720枚の作品である。 これからこの条件にあった新人賞を探していこうと思うのだが、今

          2024年7月13日、冒険ファンタジー長編小説完成の歓び

          読書の態度

          最近、ガルシア・マルケスの『百年の孤独』が文庫化され話題になっているようなので、全集版のその本を持っていた私は読み始めていた。 私はこのフォークナーの系譜にあるような作品はあまり好きではない。しかも一度読んでいる。初読の時はなんとなく全体のイメージがわかればいいと思って読んだが、この小説自体がぼんやりとしていて、そう読むしかないような作品であるので、明晰な頭では読めないと思った。 同じ名前の人物が何人も出てきて、作者まで混乱しているようだったので、これが名作と言われる意味がわ

          読書の態度