SW大橋勇

1979年生まれ/男/ストーリーライター(小説家志望)/ソーシャルワーカー(社会福祉士…

SW大橋勇

1979年生まれ/男/ストーリーライター(小説家志望)/ソーシャルワーカー(社会福祉士)/統合失調症者にアウトドアを勧める会会長

マガジン

  • 小説集

    私の投稿した小説をまとめてみました。

  • 心のリハビリを考える

    統合失調症を発症したらどう生きればいいか。それを共に考えていただくために私が考えたことをまとめたマガジンです。

  • 私とアウトドア

    アウトドアを勧めるためのマガジン

  • 山の美学

    山について、文学的に語ることで美学を展開する。言葉により山の素晴らしさを表現する。それに合った写真も掲載する。

  • 哲学論集

    私の書いた短い哲学論文をまとめてみました。

最近の記事

  • 固定された記事

【冒険ファンタジー長編小説】『地下世界シャンバラ』(全部まとめて読むならこちら)

卍  この巨大な大陸の中央にマール国という大国があった。その国の西方、人里離れた山奥に闘林寺という寺があった。そこからさらに西の山奥の辺境にラパタ国という小さな王国があった。さらにそこから西にある山奥に入った洞窟の地下深くに、地下世界シャンバラへの入り口があると言われていた。シャンバラはすべての住民が幸せに暮らす理想の仏国土である。 卍          第一章 闘林寺 一、ライとその父

    • 芸術性の高い物語文学

      私は前の記事『純文学とは何か?』で、純文学とは「物語性のあるなしに関わらず、芸術性の高い散文」と定義した。それに寄れば、エンタメ、娯楽小説、直木賞を受賞するような作品などは純文学ではない。しかし、そうなると純文学ではないが芸術性の高い物語というエンタメと純文学の隙間を埋める作品があることになる。私はこれこそが芸術性の高い物語であり、小説でもない純文学でもない、まだ呼称はないが、「大文学」とでも言っておこうか、それこそが物語芸術の最高峰だと思う。 面白い物語を求めるのは世の常で

      • 純文学とは何か?

        小説で大事なのは筋の面白さではないと芥川龍之介が言っており、それが純文学という小説という芸術のメインストリームになったらしい。 それが芥川賞のような作品の流れになっている。 直木賞はエンタメであるが、芥川賞の方が芸術的価値が高いというわけだ。 しかし、筋の面白さが重要でないとすれば、純文学には筋つまり物語は要らないのではないだろうか? 私は芥川賞の作品を読むと、いつもつまらないと思う。 直木賞も、中途半端に純文学性を求めるところがあるが、私はたまに直木賞の作品を読むと、凄い傑

        • 私はまだ病んでいるが、統合失調症の人の気持ちがわからなくなっているらしい

          今日、精神科に診察を受けに行き、そこで昔デイケアで一緒だった人と出会った。そのことについて、noteに文章を書いた。 そこで思った。「もう統合失調症について、患者の視点から書くことは難しいかもしれない」と。 数年前は自分の思いを書けば、それが統合失調症患者の視点からの文章だった。しかし、今、私は統合失調症の主観を、想像して書いている。つまり、自分の主観ではなく、過去の自分の主観を想像して書いている。私の書いた統合失調症関係の記事で一番人気のある記事は『統合失調症になってから、

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        【冒険ファンタジー長編小説】『地下世界シャンバラ』(全部まとめて読むならこちら)

        マガジン

        • 小説集
          28本
        • 心のリハビリを考える
          26本
        • 山の美学
          8本
        • 私とアウトドア
          78本
        • 哲学論集
          44本
        • 読むお笑い
          34本

        記事

          統合失調症者が自殺を回避する方法

          私は統合失調症を十六歳から患っている、四十五歳の男である。 私は統合失調症を患う前の十四歳からマンガ家を目指していた。そのために統合失調症になったとも言えるが、なってからも将来の夢にしがみつくことで自殺を回避してきた。 本日診察を受けに行ったら、昔デイケアで一緒だった男性と会った。彼は調子が悪い様子で、私の手を取って「自殺しないようにがんばろうね」と言った。相当苦しんでいるようだった。 まあ、彼のことを書くのはやめておくが、私は最近自殺というものに切迫されていることがない。

          統合失調症者が自殺を回避する方法

          マガジン『山の美学』紹介

          私はこのnoteに『山の美学』というマガジンを作り、山についての文章作品を載せている。 これは私にとって純文学である。 物語ではない。 詩でもない。 散文ではあるが物語でも詩でもない。 じゃあ、なんなのか? 『山の美学』である。 深田久弥の『日本百名山』などに類するものかもしれないが、あれほどに世俗的でもない。 私が山に行き、思ったこと、感じたこと、考えたことを書いている。 いや、私は『山の美学』を書くために登っているようなところがある。 山頂で景色を見ていると、じっくりと他

          マガジン『山の美学』紹介

          剱岳を別山乗越から睨む私の初挑戦

          私は独り、別山乗越から、真夏の朝日を浴びる剱岳を見ていた。 深夜二時に室堂山荘を出発し、暗い中、何度も道を間違えた挙句、ようよう別山乗越を登りきったのだ。 すると眼前に神々しくも黒く聳える岩峰、剱岳が現れたのだった。 今回の山行目的である山でありラスボス然としたその存在感に私は立ち止まり見蕩れるしかなかった。そして、前夜に山荘でもらっておいた弁当を食べるならばここだろうと思い食べることにした。 オレンジ色に輝く世界で、私は石がゴロゴロしている場所に胡坐をかいて、剱岳を見ながら

          剱岳を別山乗越から睨む私の初挑戦

          登山と統合失調症について考えたこと

          私は本日、山に登り、昼食を食べて下山した。 私は統合失調症を患っていて、登山中はいつも頭の中に言葉が飛び交っていて、誰かと会話するように思考しながら歩くのが常だった。 しかし、今日は登りの間はほとんどそのような幻聴みたいな思考はなかった。 昼食を食べているときも、鳥の声が聞こえるばかりで頭の中はクリアであり、言葉が飛び交うことなく、美味しくおにぎりとカップラーメンを食べることができた。私はほぼ治りかけていることを実感した。 統合失調症は治らないと言われている。せいぜい寛解が限

          登山と統合失調症について考えたこと

          竜爪山随想

          今、竜爪山の中腹、穂積神社境内にあるベンチにて、独り、湯が沸くのを待ちながら、赤飯のおにぎりを食べている。 私は竜爪山には過去に何十回も登っていて、近年では山頂まで登らずに途中の穂積神社で昼食を食べて下山してしまう。 竜爪山は穂積神社より上の登山道は金属製の階段が長く続き面白くなく、山頂の景色がいいかと言えば遠くに清水の港が見える程度で面白くないので、いつのまにか、穂積神社で食事をすると降りてきてしまうようになった。 では何を楽しみに登るかというと、森の中を歩く心地よさを求

          竜爪山随想

          午後の高草山に登る

          今日は午前で仕事が終わったので、午後、近場の山である高草山に登った。 この山はしょっちゅう登っている。理由は、近いからというのと、焼津側から登ると焼津の平野を見下ろしつつ登ることができるので高度感が楽しめるからだ。近いからという理由をさらに説明すると、計画を立てる手間が省け、思い立ったときに行けるので、面倒くさがりな私にはちょうどいいのだ。 三時少し前から登り始めた。午後から登るのは初めてである。 いつも登りに一時間かかるのだが、今日は食べ物を持たず荷物が軽かったので五十分

          午後の高草山に登る

          「小説家」という呼称について

          私は小説家になりたい。 と言っても、純文学みたいなやつではなく、物語を書く作家になりたい。 つまり、「物語作家」になりたい。 しかし、物語作家という呼称はあまり一般的ではない。 「ご職業は?」 「物語作家です」 「ああ、小説家ですか」 となるのが落ちだ。 小説家とはそれほど幅広く人口に膾炙している。 他に「作家」という呼称がある。しかし、これは小説家よりも広い。しかし、「作家」も人口に膾炙しているが、人々は結局はその「作家」に小説をイメージする。事実、小説以外を専門とする文章

          「小説家」という呼称について

          時代の中の小説家

          私は小説家を目指している者だ。 以前から平野啓一郎の知識に憧れて、彼の「分人主義」を批判する文章を書いたりしている。 最近わかったのだが、彼の「分人」という言葉は、哲学者ドゥルーズが作ったものだということだ。哲学的に無知だった私は「やっぱりな」と思った。平野啓一郎は「知識人」である。彼のテーマにすることは思想史上の現代的テーマなのだろうなとは思っていたが、なんだ、ドゥルーズか。私にとってドゥルーズは『アンチオイディプス』を読んだがわからず、諦めた哲学者だ。私は高校生の頃から精

          時代の中の小説家

          「書かない小説家」にはなりたくない

          世の中には小説家になりたい人が山ほどいるが、ときどき見かけるのが、書いていないのに「小説家」を名乗る者がいる。 いや、小説を書きたいから小説を志しているのではなく、小説家という肩書きと文化人的雰囲気を纏うことを好む人がいる。 詩を書く者にも、そういうタイプはいる。 マンガ家志望ならば、ベレー帽を被って、締め切りに追われる生活に憧れる者がそうかもしれない。 書かない小説家は書きたい物があるのではなく、ただ、小説家の風貌に憧れているだけだ。そういう人は書くとしたら私小説を書く場合

          「書かない小説家」にはなりたくない

          フォローやスキと承認欲求

          私はこのnoteを始めて以来、毎日、いや、スマホを見る度に、パソコンを開く度に、そのベルのマークを見てしまう。 スキが来ていないか、フォローがついていないか、あるいはコメントが来ていないか、そんなことで一喜一憂している。 それは承認欲求から来るもので、誰かから評価されると気持ちのいいものなのである。 私は昔から承認欲求が強く、現在も小説家になって歴史に名を残してやろうなどと本気で考えている。というかほぼそれが人生の軸になっている。 承認欲求とはそもそもどういうものだろう? 歴

          フォローやスキと承認欲求

          夢敗れた者が、小説家を目指すということ

          私は小説家を目指している四十五歳男性である。 今日は雨で外に行けなかったので、最近書き上げた新作をプリントアウトしてみた。 紙にすると、その厚さから、「ああ、書いたな~」と満足感が得られる。 ところで考えたのだが、小説家になろうとすることはどういうことだろう? このnoteを見ても思うのだが、小説家というのは夢敗れた人たちが最後に行き着く、「夢」なのではないだろうか? そういえば私も少年の頃はプロ野球選手になりたくて、なれそもうないから十四歳でマンガ家を目指し始め、宮崎駿みた

          夢敗れた者が、小説家を目指すということ

          分人主義批判。私はあの人の何を愛するのか?

          作家、平野啓一郎に「分人主義」という思想がある。 「個人」はそれ以上分けられない最小単位ではなく、さらに分けることができ、その分けられたものを「分人」と呼ぶ。例えば、家族といるときの分人、恋人といるときの分人、友達といるときの分人、というふうに私たちは分人という「いろいろな私」を環境に応じて使い分けている。 平野啓一郎はさらにこの思想を踏み込んで、「好きな人」というのは、「この人といるときの自分の分人が好き」と言い換えるとわかりやすいと言う。 これを批判してみたい。 私た

          分人主義批判。私はあの人の何を愛するのか?