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就職氷河期世代以降の文学とは?

『日本語散文盛衰記。(どのような過程を経て、まともな本は読まれなくなってきたか)』という文章を先日ぼくは書いた。一方で漱石、太宰、三島、村上春樹を概観し、他方で岡林信康、吉田拓郎、中島みゆき、ユーミン、松本隆を絡め、加えて近年の国語教育の文学離れを交差させ、日本人の散文離れを論じたものである。


するとこのエントリーのコメント欄に街田侑 さんがコメントをくださって、それをきっかけにぼくらは文学談義をさまざまに愉しんだ。なお、ぼくは哲学書を読むのが趣味であるせいもあって、たとえば三島の、論理がすっきり綺麗に見える文章を贔屓してはいるものの。ただし、良い小説というものは観念的なばかりではだめで、ベタな現実をつかまえる能力もまた必用で、すなわち小説家には、(いわば)院卒性と中卒性のほどよいバランスが必要なのではないかしらん、などと論じた。



他方、とうぜんのことながら街田侑 さんにはまた別の文学観があって、かれは芥川龍之介の『河童』『或阿呆の一生』『歯車』を例にとって、(ぼくの言葉で言えば)実存的苦悩に迫る作品を賞揚した。なるほど、とぼくはおもった。もちろんぼくに異論などありません。そしてそんなかれは宇佐美りんさんを絶賛した。


せっかくなのでこれを機会に、ぼくは宇佐美りんさんの『推し、燃ゆ』(河出文庫 親本2020年)を読んでみた。ズボラで、かつまた生きることに苦しんでいる女子高生の主人公が推しのアイドルに一方通行の愛を捧げ、アイドルから励まされることによって、生きにくい世界を辛うじて生きている。他方、アイドルとてある日突然ファンたちを置き去りにして、アイドルの座から消えてしまうこともある。もしもそうなったとき、彼女はいったいどうなってしまうだろう? 読者はみんなハラハラしながら小説の展開を追ってゆく。全篇にわたって描写も緻密でリアルで、五感もくまなく活用され、しかも主人公が追い詰められている度合が心底切実で、ぼくは読んでいて身につまされた。また、書き手と主人公の、共感がありつつも、ほど良い距離感もまたいい。



なお、むかしもいまも小説家は一度は、女子高生を主人公にして小説を書いてみたくなるもの。しかし、実はこれは陥りがちな罠でもあって。なぜなら、女子高生(に限りはしないけれど、彼女たち)は散文から遠く離れた実存を生きていて、そんな彼女たちを散文で描くことは難しい。ただし、宇佐美さんのこの小説はこの難問を巧みにクリアしておられます。


そしてこの小説の世界について、ぼくはおもった。実に〈就職氷河期世代以降の文学〉だなぁ。おもえばいまの労働人口のほとんどは就職氷河期以降の世代です。なるほど、いまや日本は失われた30年をとうに越え、円安貧乏化が止まらない。そんな日本にあって、村上春樹作品の主人公たちのような優雅な暮らしに憧れたって仕方がない(どうせそんな暮らし、手に入りっこないんだから)そんな虚無的な気分は当然ではあって。(なお、ぼく自身は貧乏人ながら村上春樹ファンではあるけれど。)こういう時代の気分について、文学史に類例を探すならば、大正モダニズムの楽園が関東大震災の地獄によって終わってしまったことに似ている。



なお、ぼくにとって芥川賞受賞作を読んだのは2003年秋の綿谷りささんの『蹴りたい背中』、2007年初夏の諏訪哲史さんの『アサッテの人』、同年秋の川上未映子さんの『乳と卵』以来のことだった。はやいはなしが2011年311以降の日本の新しい作家による純文学をぼくはまったく読んでいなかった。これにはぼくの年下作家への関心の薄さもあるでしょう。また、近年芥川賞受賞作品の話題がなかなか広まらず、また書店で歴代芥川賞受賞作家の作品を探すのがきわめて難しくなった事情も反映していることでしょう。それでもこの過酷な状況のなかで、ある種の文学の系譜が継承されていることに、ぼくは感慨を持つ。



街田侑 さん、ぼくに考えるきっかけ
をくださって、ありがとうございます。


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