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え、三島由紀夫は「自分をゲイだとおもわせたがるヘテロ」だったの!??

昭和の有名な批評家、三島由紀夫の4歳下である村松剛の『三島由紀夫 その生涯と文学(第一部)』を読んで、ぼくは椅子から転げ落ちた。マジですか!?? 三島はほんとはゲイじゃなかったの??? ありえねーーー!!!



村松剛は三島由紀夫の同時代人で、発表されたばかりの『仮面の告白』に、三島の「贋金づくりへの期待」を見た。つまり、三島がかぶった同性愛の仮面を贋金と見なしたのだ。なお、かれはこの小説を「同性愛の部分以外は」全部事実としている。では、なぜ、三島はそんな嘘をつく? 村松剛は答える、それは三島が自分の過去の事実への見方を全部ひっくり返して、小説のなかで自分とは異なった者に自分を作り変えたかったからだ。では、なぜ三島は他者になろうとするのか? それは三島は(あどけない童話作家のままでは戦後社会を生きてゆけない)、そこでみずから社会のアウトサイダーになって生きてゆこうと決心したからだ。これは三島にとって、現実世界で生きてゆくために必要な操作だったのだ。ぼくにはその理路がいまひとつわからないけれど、はやいはなしが三島はみずから異端者(トリックスター)になって、戦後社会を批判するポジションを確保して、作品を書いて生きてゆくことを決心したということでしょう。





実は、三島は二十歳のときに女性と失恋していて、実はこの失恋こそが三島の痛恨の出来事だった、と著者は見なす。なるほど、この失恋は『仮面の告白』の後半二章に書かれていること。しかし、それに先立つ前半の二章で三島とおぼしき主人公がゲイ志向であることが念を押されているから、おのずと読者は三島の女性への失恋を三島の同性愛に由来するものとして理解するように仕向けられる。ここに、三島の策略がある。なお、三島の思惑においては、もしもこういう演出(過去の事実への見方のひっくり返し)をしなければこの小説は堀辰雄の亜流になってしまって、三島はそれだけは避けたかった。それはともかく、『仮面の告白』執筆時に三島に同性愛経験があったかどうかは疑わしい。個人的にはぼくは、あの小説は後半に描かれる女性との失恋がまず最初にあって、そこから遡って、「自分には男色傾向があるゆえ、女性を愛したくても愛せないのいだ」という虚構をでっちあげたのではないかしらん、と疑っている。




いずれにせよ、このスキャンダラスな自叙伝『仮面の告白』でスター作家になった三島は、みずからをゲイとして演出し、ゲイバーに入り浸り、丸山明宏に薔薇の花束を贈り、そしてつねに美青年を連れ歩いた。しかし、それらすべての三島の行動を、村松剛は三島が他者を演じたかったがゆえの演出と見なす。村松剛にとっては、三島が男色者だなんてとんでもないことなのだ。こんなスティグマをなすりつけられることを許してはならない、とかれは憤る。



ぼくはこの説に、三島と同時代を生きた三島研究者のひとつの典型を見るおもいがする。ぼくは三島に同情する、なぜなら三島はかれの作品の最愛の理解者にさえも、しかし三島がゲイであることは認めがたいものとされていたのだ。三島の壮絶な孤独の一端がわかろうというものだ。



なお、村松剛『三島由紀夫 その生涯と文学(第一部)』はネット検索すれば読むことができます。また、村松剛『三島由紀夫の世界』(新潮社、1990年)は、このかれの見立てでもって、三島の全生涯を解説したものです。










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