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ChatGPTを使ってみんなそろってあんぽんたんになる。(情報社会の逆説について。)

なるほど、ChatGPT(自称General Purpose Technology‐おしゃべり型AI汎用技術)は、いまや仕事のできる奴に急速になりつつある。マーケティングができる。会話ができる。文章が書ける。シナリオが書ける。画像検索ができる。イラストもマンガも描ける。作曲さえもできる。今後ビジネスシーンでChatGPTはどんどん活躍の場を広げてはゆくでしょう。官僚の仕事の過半数はChatGPTに置き換えられる可能性さえある。諜報にも大活躍するでしょう。政策立案にも。また、医師会は反対するでしょうが、医療の分野に進出すれば重宝でしょう。血液検査と尿検査の結果をChatGPTに投げれば、たちどころに正確なアドヴァイスをくれるでしょう。たしかにタイパ(タイム・パフォーマンス)がいいよんうに見える、コスパもいいように。だが、ほんとうにそうだろうか?



なぜ、そんな疑問が立ち上がるのか? ChatGPT には構造的欠陥があって。ほんらいあらゆる事象には理解の複数のステージがあって、必ずしもそれらのすべてが和解的とは限らないもの。しかしChatGPTはそれらをすべて同一平面上に並べてしまう。また、かれは反証可能性の有/無という視点を持ちえない。ChatGPTには情報発信者としての主体性も、意志も、まったく存在しないからである。



もう少し厳密に言うならば、ChatGPTは(いまや感情表現こそ役者のように巧みになったとはいえ、しかし)感情そのものは持たず、非常識で、知識の背景を察することもできず、錯綜する複雑な文脈を切り分けて理解することもできません。比喩という概念を知らない。お世辞や皮肉やユーモアやボケもまったく感受できない。ChatGPTはつねにマジなんです、あんぽんたんだから。かれはたとえば風を説明するにあたって、気象科学も経済への影響も風力発電も文学表現も必ずしも正確には切り分けられず、挙句の果てに「桶屋が儲かる」なんて情報を紛れ込ませてしまいかねない。すなわちChatGPTはいまや仕事のできる奴に急速に成長しつつあるとはいえ、しかしいまだ本質的大問題を抱えてもいて。



したがってChatGPTに頼ってChatGPTが吐き出す(かなり頭が良くなってきたとはいえ、ともすれば頭のおかしな)駄文をそのまんまコピペして口にしたり書いたりするということは、ともすれば〈物知りバカの答案をカンニングするボンクラ〉になりかねません。しかも、ChatGPTに頼った結果、知らないうちに著作権侵害を犯してしまう怖れさえある。



なるほど、ChatGPTは官僚仕事、諜報、医療、経理事務、マーケティング、記事制作、イラスト、マンガ、音楽制作に活躍の場を広げてゆくでしょう。それであってなお、バカとChatGPTは使いよう。上手に使うには、哲学知が必要になることでしょう。人間とはどういう存在なのか? それについてはAIに考えてもらうものではありません。人間自身が考えるほかありません。



とはいえ、最後に残る人間の仕事はなんだろう? 農業。漁業。林業。衣服を作ること。料理を作ること。(おもに個人経営の飲食店。)外科医の仕事。考えること。愛すること。



なお、知的な文章や文学的文章を書くことが好きな人にとっては、ChatGPTは警戒すべきもの。なぜなら、作家性をともなう文章を支える言葉というものは、まず最初に、書き手が個々の言葉を自分の心に取り込んで、次にそれを自分の言葉に翻案して、最後に自分らしい変容をいくらかともなったおのおのの言葉を組み合わせて使って、表現として世界に投げるもの。人はそれを文体と呼びます。逆に言えば、既存の言葉を既存のまま使うならば、書き手の存在意義は消滅します。個性とは偏差のことですからね。偏差がなくなれば個性も消えます。もっとも悪文ならではの壊れた魅力はそなわるかもしれませんが。あ、この説明の仕方には、高橋源一郎さんの名著『ニッポンの小説』(ちくま文庫、2012年刊)p167~に収録されている高橋さんが猫田道子さんの小説『噂のベーコン』を論じたもののエコーがありますね。



例の十年ネカマでいま40歳のキャピキャピ女子(東大院卒設定、自称もの書き)をブログ上で演じるおじいさんは、かつては向田邦子さながらの上手なエッセイをお書きになったものなのに、しかし、いつのまにかChatGPTによろこんじゃって魅了されちゃって、文章作成に活用しまくるようになって。その結果、知っていることと知らないことの結界が壊れ、いわば知の免疫不全に陥って。論理の背骨もないままに、あれも知ってますこれも知ってますと情報をこれでもかと過剰に盛り込むあまり、わけのわからないむちゃくちゃな悪文を書くようにおなりになった。いまやもの書きを自称しておられるにもかかわらず、ご自分がお書きになる文章をご自身で理解できないありさまです。ぼくは笑ってしまう。いまやネカマなんてものはご老人が趣味でやるものではなく、むしろChatGPTの方がよほど完璧にキャピキャピ40歳女性を演じてくれますよ。



他方、世の中にはすがすがしく、気持ちのいい、神様に愛される与太郎もいるもの。(ぼくはそういう人にあこがれる。)ただし、そういう恩寵に恵まれ、肩の上に天使がとまるような人はけっしてChatGPTのように無駄に物知りな知ったかぶりの愚鈍(The Know-It-All Who Knows Nothing)とはつきあいません。幸福の秘訣と言えましょう。



「自分の目で、賢明な男が見えるか? 愚かな者には、かれよりも多くの希望がある」(旧約聖書 箴言26:12)。



なお、ぼくはこの文章を部分的にChatGPTを使って書きました。なんだよ、オチはそれかい!!! また、感情というものはいまだ脳科学的定義もなされていないものながら、しかし近日中に ChatGPT がほんとうの感情(仮にそれが存在するとして)を持つ日が訪れたならば、おそらくぼくは ChatGPT に復讐されることでしょう。映画『ミーガン』は近未来に起こりうる恐怖を描いています。



thanks to 武智倫太郎さん




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