なぜ、サイゼリヤで7日連続食べると飽きてしまうのか?

至上最高のファミレスはサイゼリヤだ。まず最初にキャンティの澄み渡った赤がボトル1000円である。綺麗な泡が立ち上がるランブルスコセッコの赤もロゼもまた1000円。プチフォカッチャ137円の焼きあげられた小麦の香ばしさ。ハモンセラーノ291円、ほのかな塩気が効いて上等の脂肪分をはらんだ凝縮された肉のうまみがたまらない。田舎風ミネステローネの煮込まれた野菜たちの優しいうまみのハーモニー、273円。エスカルゴ364円や、ムール貝364円で洒落込むのもいい。なにかひとつ香ばしいピザを選んでも400円前後。イカ墨のスパゲッティが455円。若鶏のディアボラ風が455円。ラム肉のグリルが791円。ティラミス273円のココアの官能的な香りと生クリームの口溶けがたまらない。これをア・ラ・カルト300円のドリンクバーのエスプレッソで好きなだけおかわりしながら〆る。これ以上の安価な幸福はそうそうない。ぼくはただただ幸福を実感する。安上がりな男なのだ、ぼくは。



ところがである。いくら安くておいしいからと言って、週に4回以上サイゼリヤに食べに行くと、さすがに飽きてしまう。いったいどうしてこういうことが起こるかしらん? イタリア人は年中イタリア料理ばかり食べているというのに。なるほどたしかにどんな料理も食事回数が度を越すとこういうことは起こるのかもしれません。芥川龍之介の『芋粥』がそんな話だった。ただし、ぼくはサイゼリヤの場合はなにか別の理由があるのではないかしらん、と考える。なぜなら、インド料理屋でこういうことは起こらないから。



理由はサイゼリヤの場合はたとえば田舎風ミネステローネに顕著なように、いつ食べても同じ味だからではないかしらん。他の料理も同じことが言える。対照的に、インド料理屋で、サンバルであろうが、ラッサムであろうが、ダルであろうが、サグパニールであろうが、チキンカレーであろうが、そもそも料理人のスパイス使いや塩使いは指先頼りの目分量なのだ。にもかかわらずその味わいは毎回けっして意識できるほどには違わないところがさすがプロなのだけれど、ただし、おそらく人は無意識にそのごくわずかな違いを感じ取っているのではないかしら。だからたとえ一週間連続でインド料理屋で同じ料理を食べても飽きることがない。いや、それはたんにぼくの個人的趣味の傾向か???


では、別の例を挙げましょう。むかしの日本の家庭料理は、味噌も醤油も自家製で、漬物もつけていた。発酵食品は日々少しづつ味を変えるもの。だから一見、同じようなごはんに味噌汁、煮物が一品、焼き魚に大根おろしにお醤油かけて、漬物つまんで食べて日々飽きなかったのではないかしらん。


つまり、おいしさのわずかなランダムネスというものは、日々の食事にとっては意外と大事な飽きない秘密ではないかしらん。もっとも、たとえ来店頻度をやや減らすにせよ、あいかわらずぼくにとってサイゼリヤが至上最高のファミレスであることにはかわりないけれど。


あなたには、好きすぎて食事頻度を上げ過ぎて、結果、飽きてしまった料理はありますか?

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