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最後の願い。【ショートショート】

この心臓はもうすぐ動きを止めるだろう。
吸って吐いて。
吸って吐いて。
呼吸をするたびに肺の吹子は悲鳴を上げて、
心臓を鞭打つ。
もっと。もっと。

これ以上何を頑張ればいいの。
体に繋がれた管の中を
命が行ったり来たり綱渡りする。


薄く目を開けると、
目の前に神様の両手が見えた。
わたしを迎えに来たらしい。
神様は光に包まれた手を差し伸べて
こう言った。

「あなたの最後の願いは、なあに」

「わたしの願い?」

重石のついた体を横たえたまま、
やわらかな風を感じて飛ぶ夢を
何度も見たわたしは、
神様の爪の形を見つめて言った。

「わたしの願いは、空を飛ぶことです」

神様の温かい手がわたしの手を取り、
きゅっと微笑む気配がした。

気づくとわたしは
病室のベッドを見下ろしていた。
部屋の窓硝子に映る自分を見て、
わたしの肩甲骨が翼になったことを知った。
白い羽毛などは生えていないようだ。
生身の体の色の、筋張った大きな翼が
狭い病室の中で脈打っていた。
背中に少し力を入れて、
新しい翼を動かしてみる。
肩を持ち上げて
肩甲骨を寄せたり開いたりする。
次第にわたしの翼は
ばさりばさりと音を立て始めた。
翼の動きに合わせて
部屋のカーテンが煽られ揺らいだ。

翼の動かし方に慣れてきたので、
三日月型の窓の錠をこっそり開け
わたしは空へ飛び立った。
全力で翼を上下させて気流に乗る。
乗ってしまえばあとは風まかせ。
翼を広げたまま
滑空したり舞い上がったりを繰り返し、
空に溶け込む遊びをした。
ああ、なんて気持ちがいいのだろう。
青鷺がわたしを追い越してゆく。



薄暗いビルとビルの隙間の階段の踊り場に、
見知った顔を見つけた。
手すりにもたれて
がらんどうの瞳で街並みを見下ろしている男。
やがて男はぼんやりと天を仰ぎ、
わたしに目をとめた。

「鳥か。お前はいいな」

男はいつもそうしているというふうに
いかにも慣れた手つきで、
手すりの上に立った。
バランスをとる足元が少しぐらついている。
それから
ちょっと忘れ物を取りに行くような顔をして、
本当に何気なく、
手すりを蹴って飛び降りた。
わたしは肩甲骨の翼を激しく動かし、
空気を切り裂いて男の元へと飛んだ。
顔に当たる風が痛くて皮膚が切り裂けそうだ。
男が地面に口づけをする寸前で、
翼の上に乗せることができた。
男の重さで体がかしいだけれど、
わたしはなんとか飛び続け、
男が生まれ育った山あいの場所まで
運び下ろした。

「なんてことするんだよ!」

男は血走った眼でわたしを睨みつけて
喚き散らし、
手近な石を拾っては
わたしに向かって投げつけてきた。
そしてそのうちのひとつが右の翼に当たった。
わたしの内側の奥の方、
一番静かなところに、小さくひびが入った。
わたしはひと声鳴くと、
男の上を二度旋回して病室を目指した。
静かな山に
わたしの鳴き声と男の叫びが
幾重にもこだましていた。

意識はなくとも声は聴こえるものなのだなと、
わたしはベッドの上に横たわったまま
そんなことを考えていた。
看護師が耳元でゆっくりと大きな声で
話しかけてくる。

「もうすぐ息子さんがいらっしゃいますから。
それまで絶対に頑張ってくださいね」


これ以上、何を頑張ればいいの。

わたしは目を瞑ったまま、
緩やかになってゆく自分の心臓の鼓動に
耳を澄ませていた。
翼は折り畳んで体の中にしまっておいた。


息子もきっと
空を飛んでみたかったのだ。
だから手すりを蹴って、
羽ばたいたのだろう。
わたしに似ているのは
顔立ちだけではないのだと、
心の中で笑う。

湯灌の時。
わたしの右の肩甲骨に
小さな紅い傷痕ができていることを、
息子は知るだろう。
深い繋がりの紅が流れる体。
決して堕ちないための翼は
息子の背中にも生えているのだと
いつかきっと、わかるだろう。



fin.

今回のボディパーツは『肩甲骨』


ひょっとして肩甲骨は
翼が生えていた名残りなのでは、
などと昔から夢想してきました。

#ショートショート  
#ボディパーツショートショート
#肩甲骨

文章を書いて生きていきたい。 ✳︎ 紙媒体の本を創りたい。という目標があります。