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カンテラ掲げていちご狩り【短編小説】

足元がとても暗いので気をつけてくださいね。
そう言われて咄嗟にわたしのつま先は身構える。
足に土が被っているのだろう、
ひんやりとしたかすかな重みを
甲のあたりに感じたけれど、
わたしには確かめようがなかった。

もうすっかり陽の落ちた畑は
群青の闇の冷たさに包まれて、
光るものといえば星あかりしかない。
遠くで犬が鳴き、
通り過ぎてきた柿の木から
鳥がばさばさと飛び立つ音がした。
何か話していないと人との距離が
どんどん開いていってしまうようだったので、
わたしはとにかくなおちゃんに
やたらと声をかけまくっていた。
そこにいることはわかっている。
でもなおちゃんが
影みたい夜に溶けてしまったらどうしよう、
と心許ない気持ちになって

「ねえねえなおちゃん、なおちゃんってば!」

と、なおちゃんのセーターの肘のあたりを
掴んで離さないでいた。
ようやく畑の主人が
両手にカンテラを持ってやってきた時には、
わたしは心底安心した。
あたたかい灯りが、主人の歩みに合わせて
ふらふらと揺れながら近づいてくる。
それは会いたい人を探している魂みたいだった。



夜のいちご狩りに行ってみない?と
なおちゃんに声をかけた時のことを思い出すと、
笑ってしまう。
なおちゃんは整った眉をゲジゲジと寄せて、
街中のトラッシュボックスを見つめる時のような声を出した。

「なんだって夜にいちごを狩るのよ?
そんなの昼間にやればいいじゃん」

という至極まっとうななおちゃんの言葉に、
わたしは耳の下をぽりぽり掻きながら
苦笑いするしかなかった。

「夜に甘いものを食べることへの抵抗感も
ハンパなくあるし」

なおちゃんは珈琲を飲みながら、
夜のいちご狩りへの不満を
こつりこつりテーブルの上に並べていった。
なおちゃんが密かにダイエットしていることも
わたしは知っている。
それでもなおちゃんは結局、
夜のいちご狩りへ行くことに
オッケーサインを出してくれた。
あらためて、すき、と思った。


なおちゃんが
1年間付き合った恋人と別れたと知った時、
不謹慎ながらわたしは
ほんの少し笑みをこぼしてしまった。
これからはまた前みたいに、
なおちゃんとふたりでたくさん遊びに行ける!
親友みたいな顔をしていつでもそばにいて、
手を繋いだり肩を組んだりしてもいいのだ。
遊びに誘う電話をするのに、
今の時間、恋人といいムードだったら悪いなとか、気にしなくて済む。
なおちゃんはフリーになったのだから。
もしかしたらわたしからの電話を待っているかもしれない、なんて思ってみては、
それはナイナイと手を左右に振って、
ついでに火照った自分の顔を
ぱたぱたあおぐのだった。

ほんとうは。
わたしが一番触れたかったのは、
手でも肩でも髪でもなくて、
なおちゃんのくちびるだった。
ぽってりとやわらかそうな
なおちゃんのくちびる。
薄い皮膚の下で流れる血潮の熱を帯びて、
触れたらきっとやけどするに違いない。
それをもうめちゃくちゃに吸って吸って、
きれいな形が歪んで崩れてしまうところを
わたしは妄想した。
そんなことあるわけないと
わかっていたけれど。



わたしたちは
いちご畑の主人から渡されたカンテラを
ひとつずつ提げて、
夜のいちごどもを狩ることにした。
畝の間を静かに歩くと、
土の匂いが強く立ちこめた。
いちごの葉が足首にあたってこそばゆい。
カンテラで照らされた光の領域の中に、
いちごの輪郭が浮かびあがる。
垂れ下がるようにして実るいちごを
手のひらにのせて、
重さと手触りを確かめ、
鼻を近づけて香りを嗅ぐ。

「大きないちごだなあ。おいしそう」

なおちゃんが葉をがさがさと掻き分けて、
いちごをひとつ摘み取る音がした。
命を繋ぐ茎から離されたいちごを
ランタンの近くに寄せて、
なおちゃんはしげしげと観察した。

「まるくて、さんかくで、いいかたち」

「なにそれ。全然わかんない」

ふたりして笑った。
なおちゃんがいちごを噛むと、
甘い香りがわたしたちを包んだ。
途端にわたしのなかで獰猛な食欲が湧いてきて、
かたっぱしからいちごを
ぷちんぷちんと摘んでは食べた。
しゃがんだままじわじわと畝を移動して、
熟れたいちごを
手当たり次第にもぎ取り口へと運ぶ。
そんなわたしは、
まるでいちご一掃マシーンだった。



「やっぱりアイツと別れたんだね。
わたしの言った通りだ」

昼間の太陽の下では、
そんな言葉は絶対に口にしなかっただろう。
なおちゃんもきっと、
わたしのデリカシーの無さを
半べそでなじったと思う。
でもここは夜のいちご畑で、
闇といちごとわたしたちしかいなかった。
キャンプの焚き火を見つめながら、
自分のありのままを曝け出して語ってしまう時に似ていた。

「もしもさ、
私が『金持ちの家の美人なお嬢様』
じゃなかったら、
今よりもっとずっと友だちや知り合いは
少なかったと思うんだ」

「そう?なおちゃんはなおちゃんだよ。
何を持っていて、何を持ってなくても」

「そう言うのは、みずほだけだよ」

なおちゃんは果てしない夜空に向かって
大きく息を吐いた。
その溜息は明日の雲を作るだろう。
お金持ちで美人のお嬢様。
なおちゃんを形容する時にみんなが言う台詞だ。
それに群がる人達も沢山いた。
みんながなおちゃんの美しさや
恵まれた環境を羨むけれど、
それはなおちゃんの心とは何の関係もない。
わたしはそんな情報をひとつも知らないまま
なおちゃんをすきになった。
なおちゃんが天使でも悪魔でも
わたしはかまわない。

一度だけ
なおちゃんの顔に触らせてもらったことがある。
両手で恐る恐る包み込んで
指先でなぞったなおちゃんの顔。
広い額はつるりとしていて、
生え際のほそいうぶ毛はひどく柔らかかった。
流れの整った眉の下、
少し窪んだ眼窩にビー玉みたいな瞳が
ころんと収まっている。
まつ毛はわたしよりも長くて密で、
なおちゃんがくすぐったいよと笑うと
それが微かに震えた。
鼻骨からなだらかな坂を作る鼻筋は
まっすぐに通り、
冷たい鼻先は小さく尖っていた。
にきびひとつない、なめらかな頬。
手のひらに吸いつきそうな張り。
不意に頬骨の下の膨らみが盛り上がり、
なおちゃんが笑ったのがわかった。
この時、わたしは敢えてくちびるには
触れなかったのだった。
いま触れてはいけない、と思ったのだ。
なおちゃんはたしかに美人だ。
目の見えないわたしにもそれは理解できる。
光の強弱しか感じられないわたしの目の代わりに
指先で心に描いたなおちゃんは、
女神様みたいな顔立ちだった。
女神様の顔を見たことがあるわけではないから
自信はないけれど。
わたしは心臓のまんなかで
なおちゃんを見つめてきた。
なおちゃんは、他の人みたいに
わたしを可哀想な人扱いはしない。
たださりげなく危ないものから
遠ざけてくれる時の
なおちゃんの手の温もりに、
わたしは何度も恋をした。

自分のアパートへの帰り道、
知らない男がわたしの後を忍び足でつけていた時も、なおちゃんは救世主のように現れた。
ドアノブに鍵を差し込んでドアを開いた瞬間、
背後からものすごい力で玄関の中へ
押し倒された。
嗅いだことのない見知らぬ男の体臭と
荒い呼吸音が迫ってきた。
何が起きているのかもわからず
声も出せないでいると

「離れなさいよ!ここから失せろ!」

突然、なおちゃんのハスキーな罵声が
通りに響き渡った。
なおちゃんは郵便受けの下の植木鉢を掴むと、
男の後頭部やら背中やらに
ガンガン振り下ろしたのだった。
男を追い払って警察に電話した後、
なおちゃんは道端に転がったケーキの箱を
ゆっくり拾った。
わたしの好きなピスタチオケーキの、
香ばしくて甘い匂いが道路から漂った。
せっかく買ってきてくれたのにごめんね、
と言うと、
なおちゃんはわたしの頭を抱き抱えて
鼻をすすった。泣いているみたいだった。
それから

「また買ってくるよ」

と言って花のようにふわっと笑った。
わたしの心に、なおちゃんの笑顔が咲いた。
なおちゃんのきらきらと澄んだ心を見通せるのは、わたしの特権かもしれなかった。



「いちごってさ、世界でいちばんおいしい
くだものなんじゃない?」

わたしは自分の持てる感覚を総動員して、
この場所で最も良いいちごを
なおちゃんのために探す。
これはと思ういちごをもいで、
なおちゃんの手のひらにのせる。
わたしの顔のすぐそばに
なおちゃんの体温が感じられた。

「甘いよ。齧ってみ」

なおちゃんはいちごを咥えたまま
もごもご言い、
わたしの方へ顔を突き出してくる。
わたしは
なおちゃんのいちごくさい息を頼りに、
そっと顔を近づける。
夜気に冷やされたいちごがそこにある。
その先端がわたしのくちびるに当たった。
わたしはなおちゃんを傷つけないように、
いちごの先のほうを小さく噛んだ。
甘い汁が滴って
わたしとなおちゃんの顔を汚した。

「うん。甘い。すごくおいしい」

いちごを齧った時、
なおちゃんのくちびるに
ほんの少しだけ触れてしまって、
予想通りなおちゃんのくちびるはとても熱くて、
いちごとの温度差に身を引いたわたしは
ごめん。と謝った。

「ほらまた謝るんだ。もう謝らないでよ」

なおちゃんが小声で言った。
星の降る音しか聞こえない夜の真ん中で、
わたしたちは口移しでひとつのいちごを食べた。
甘さとみずみずしさが
口の中でぬるく溶け合った。


「みずほ」

なおちゃんがわたしの名前を呼ぶ。

「太陽が一番よく降り注ぐ場所で、
一緒に暮らそうよ。
それでいちごとか育てるのはどうかな」

淡いくちづけと呼ぶには
あまりにも気恥ずかしかったけれど、
そんなことはまったく気にしていない
なおちゃんは、
ピクニックに誘うような軽さと明るさで言った。
わたしは目眩を起こしそうになりながらも、
わざとはしゃいで返事をした。

「いちご農園、最高じゃん!
いちごはきっとあったかいところがすきだから、
わたしたちも穏やかであったかいところへ
行こう」

明るさにしか反応できないわたしを気遣って、
なおちゃんはそう言ったのだろう。

「太陽と風といちごとみずほ。
それだけあればいい。あとは何も要らないんだ」

なおちゃんとふたりなら、
どこで何をしていてもその場所がホームになる。

神様。
わたしの願いを叶えてくれるなら、
どうかなおちゃんが
永遠に笑顔でいられるようにしてください。
わたしでもなおちゃんをしあわせにすることが
できると、信じられる強さをください。
永遠なんてないと、どこかで思う自分を棄てる。
信じなければ何も手に入らないのだ。
永遠は、ふたりで作ってゆけばいい。



なおちゃんが
わたしを友達みんなに紹介してくれた時の
微妙な空気の流れは、
今思い出しても胸がチクリとする。
なおちゃんが告げた瞬間、
仲間内の冗談に満ちたそれまでの会話は
ぷっつりと途切れ、
長い沈黙が横たわった。
みんなの視線は、
わたしとなおちゃんの間を
行ったり来たりしていたのだろう。
誰も言葉を発しなかった時間の長さが、
烈しい戸惑いの証拠だった。
なおちゃんの家族もおそらく
わたしを許さないだろう。
それでもなおちゃんは
強く優しくわたしの手を握る。
手が伝えてくれるものを
わたしは何よりも信じる。
なおちゃんは
カンテラよりも明るくわたしを導く光。
わたしの心は、
ふたりならたとえ暗い場所でもどこであっても
なんでもできると大声で叫んでいる。
夜のいちご狩りになおちゃんを誘ったのは、
それを伝えたかったから。
わたしはいちごの紅さを知らない。
知る必要がないのだ。
わたしたちのいちごは何色でも
甘くて少しすっぱくて、
美しいに決まっているのだから。

fin.


*********

いちご狩りのシーズンですね。
ところで本当に夜のいちご狩りって
行われているのでしょうか。笑

普段はあまり書かないことにしている恋愛小説を
ちらっと書いてみました。
ほのかに灯る、本当に小さな小さなお話です。
姿とか形とか
性別とか年齢とか
そういうことではなくて
誰もが幸せであってほしいという
願いを込めました。
読んでいただけるとうれしいです。


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