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春から朝を走る

桜が散り、春も深まる今日この頃。4月に入った途端、学生というモラトリアム期間は満了を迎えた。

この春を境にこれまでラジオを聴きながら夜を徹していた私のライフスタイルは大きく激変した。

まず、小鳥がさえずるよりも先に無機質なアラームの音で瞼を強制的に開かされる。ゾンビのように地面を這いつくばりながら、洗面台の前に立つと、鏡には生気のない顔色をした男が一人。漆黒に染まった瞳の主は、鏡の中で私と同じ動きをしている。

それからYouTubeの動画を見ながら、ネクタイを結ぶことを試みる。動画は最後、ネクタイを綺麗に締めて、白い歯を見せ、爽やかな笑みを浮かべる男性の姿で終わる。

「なるほど結び方は理解した。もう一度」

また最初から再生し直し、最後になるとまた爽やかな笑みが視界に入る。また最初から。まだまだここから。あれ、おかしいな。いつまでたっても私のネクタイは白い歯を見せることはない。対する私は小学校以来虫歯にはなっていないというのに。

朝と格闘していると、時計の中の秒針は通常時の何倍もの速さで動いていく。おそろしく早い秒針の動き、俺でなきゃ見逃しちゃうね。やつらはこちらに忖度することはない。時間というのは、無常極まりないのだ。

そして、気づけば満員電車の中だ。ねぇ、展開早いでしょ。都会育ちの私でも朝の電車はいつまでたっても慣れない。車内に入った瞬間だけ体が小さくなる魔法にかけられたい。

と、まあようやく会社の最寄駅に着いた時には、もう抜け殻みたいに貧弱な様相になってしまっている。本体が自宅にいればどんなにいいことか。朝と格闘した後、世の社会人は仕事を始める。まったく、朝はゆっくりと過ごしたいものである。優雅にコーヒーでも飲んで。仕事は昼からにしようぜ。

しかし、「社会は甘くないんだよ」と厳しそうな架空の大人が心の中で言ってくる。わかってるけどそんな眉間に皺を寄せて言わなくてもいいじゃない。彼は私がコーヒーに入れようとしていたスティックシュガーを取り上げ、苦々しい眼差しを向けてくる。

社会は厳しい。そんなことは頭の中では理解している。これまで生温い学生生活を送っていた私から見ると、社会人の忙しさは凄まじいものだ。こんだけみんな朝から夜まで忙しさと格闘してるのに、週休2日じゃ足りないでしょう。

週休2日なんてネクタイの練習してたら終わっちゃうよ。だから、せめて週休5日希望。それか「パーマン」のコピーロボットが欲しい。って、ちょっとシュガースティック取り上げないでよ。

時間は誰かに忖度することはなく、いつも一定に進んでいる。日が沈み、夜が明けるとまた目覚まし時計が震える。「もう少しだけ寝ていたい」という淡い期待はいつも桜のようにあっけなく散るのだ。

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