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【短編小説】深海を抜けると
「絶対にあの場所へ行ってはいけない」
みんなは決まってそう言った。だから、あそこへは誰も近づかない。
「何で行ってはいけないの?」
僕がそう言うと、みんなは困った顔をする。明確な答えがあるなら、言い淀んだりせずにはっきりと答えられるはずだ。
「そういうルールだからだよ」
結局はその一言でうやむやになる。僕のもやもやはまだ収まらないが、大人たちはみんな次の質問をする前にそそくさと帰ってしまう。
「何でそういうルールがあるの?」
その疑問は長い間僕の中で燻っていた。
*
ある日、親友のライネスが荷物を背負って、僕の前にやってきた。
「今からあの場所へ行く」
僕は絶句した。
「本当なのかい。あそこは行ってはいけないと言われているじゃないか」
「お前もずっとあの場所を気にしていただろ。どうだ俺と一緒に行かないか」
彼は僕に手を差し出していた。僕は逡巡した。ライネスとともに行けば、僕の胸の中のもやもやは晴れるかもしれない。だが、未知の場所へと足を踏み入れることに恐怖を感じていた。
僕が動けずにいると、ライネスは寂しそうな顔をして手を引っ込めた。「じゃあな」という一言を残して、彼の背中は遠ざかっていった。
*
翌日、周囲は騒然としていた。もちろんライネスの件だ。今まで彼と仲良く接していた者でさえ、人が変わったようにライネスを侮蔑していた。
「何でそんなに彼を責めるんだい」
すると、みんなはまたこう言った。
「決まってるじゃないか。ルールを破ったからだ」
「何でそんなルールがあるんだい? あの場所は危険なの?」
誰もその質問には答えてくれなかった。すると僕の中で燻っていたもやもやとした感情はさらに深く根を張っていった。
ライネスと僕はよくあの場所の話をしていた。そこにはとても美しく一度見たら忘れられない光景が広がっているに違いないと。
「いつか見てみたいな」
僕たちは二人でまだ見たことのない景色を夢見ていた。だが、同じ方向を向いていると思っていたのに、僕はあの日、彼の手を取ることができなかった。そんな自分に心底幻滅した。だからもう一度彼に会って、話をしたかった。僕は彼が戻ってきた時に言う一言をずっと頭の中でイメージして日々を過ごした。
しかし、いくらたってもライネスは帰ってこなかった。みんなはルールを破ったから命を落としたのだと言っていた。ライネスの親友であった僕に「お前は彼の後を追うなよ」と一言添えて。
ライネスがいなくなってからしばらく経つと、みんなの関心も薄れていき、いつも通りの日常を取り戻していった。
今日も僕たちは村長の指示に従って、重たい瓦礫を遠くまで運ぶ。それが一体何のためになっているかは誰も考えない。でも、そうすることによって、村長は僕たちに食糧を分け与えてくれる。だから、僕たちは必死に働いた。
僕とライネスは一度村長に尋ねたことがあった。
「村長、この瓦礫は一体何のために運ぶのですか?」
すると、村長は柔和な笑顔を浮かべて「この世界を豊かにするためだよ」と言った。ライネスはさらに質問を投げかけようとしたが、返ってきた答えは抽象的なものばかりだった。
僕たちが瓦礫を運ぶたびに村長は華やかな見た目になっていった。
ライネスはずっとこの世界に疑問を持っていた。だから彼は外に出ることを選んだ。周囲のみんなはやがて彼の話をすっかりとしなくなった。だが、僕はライネスが死んだとはとても思えなかった。根拠はないが、そんな気がしたのだ。だから、僕は彼に会うため、勇気を出して、あの場所へと行くことにした。
部屋の中で必要なものだけをバックパックにつめた。あれこれと考えながら、荷物を仕分けしていく。最終的にはとても軽い荷物になった。案外、僕は余計な物を生活の一部としていたのかもしれない。
どこまでも続く深い青。僕はこの色以外知らない。息を吐くたびにぷくぷくと泡が高く上がっていく。後方を振り返ると村長が追いかけてきているのが見えた。僕は捕まるまいと懸命に泳いだ。
視界がぐるぐると回っていた。どこまで来ただろうか。振り返るともう村長の姿はなかった。僕は呼吸を整えて、上を見上げた。
するとそこにはハッと息を呑むような光景が広がっていた。
まるでガラスのように空がゆらゆらと揺れていた。今まで空だと思っていたもの、それは世界の境界線だった。そこから漏れ出てた光が僕の頬を照らした。
気づけば僕はその光に向かって進んでいた。
進めば進むほど光は照度を増していく。この先にあるのは未知なるもの。ライネスと僕が夢を語り合った世界。みんなが漠然と恐怖を抱いて近づかなかった景色。
「うっ」
刹那、僕の身体は境界線を飛び越えた。視界に飛び込んできたのは、眩しい光。そこには今まで知らない様々な色があった。そして、その景色はどこまでも続いていた。見渡す限りどこまでも。
「な、美しいだろ」
聞き慣れた声が聞こえた。
「ああ、想像以上だ」
久しぶりに会った彼はすぐさま、僕に背を向けて去って行った。その背中が段々と小さくなっていく。でも僕は彼を追いかけなかった。今度は決して怖くて身体が動かなかったのではない。
「またな」
僕は気の向くままに世界を泳ぎ始めた。
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