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悲劇の後の美頼の行方。そして、犯人が明かす「フワつく身体」とは。或いは、『フワつく身体』第三十九回。

 ※文学フリマなどで頒布したミステリー小説、『フワつく身体』(25万文字 366ページ)の連載第三十九回です。

 次回!いよいよ最終回!

初回から読みたい方はこちら:「カナはアタシの全て……。1997年渋谷。むず痒いほど懐かしい時代を背景にした百合から全ては始まる。」

前回分はこちら:「こういうことだったんだな、この国で偉くなるってのは」とその人は言った。そして明らかになる加奈の行方。或いは『フワつく身体』第三十八回。

『フワつく身体』ってどんな作品?と見出し一覧はこちら:【プロフィール記事】そもそも『フワつく身体』ってどういう作品?

本文:ここから


●世良田美頼の日記(文章が書かれたのは一九九八年(平成十年)一月二十五日、内容は一九九七年(平成九年)十二月二十五日)


 アタシはまだ、殺されないで、カナとヨシキがキメセクをやっていた部屋に閉じ込められていた。

 カナがあの工事現場に埋められたあと、アタシが殺されなかったのは、夜が明けてしまうからだった。カナと同じ工事現場に埋めるとしても、アタシを殺して焼却するにはもう時間がなかったし、最初に言ったみたいにどこかの山に埋めようにも、明るくなってからでは目立ってダメだみたいなことを言った。

 それに、近所から苦情があったっていうマサさんの廃工場はもう使えない。

「こいつがカナにやったみたいに、ナイフで刺したら、血の海だ。どうすんだよ、あの控え室の内装。とりあえず、誰も入れないように鍵してあるから、すぐにはバレねえにしてもよ。とりあえず、起きてしまった殺人であるカナの死体は片づけたんだ。こいつに関しては、殺し方を含めて、改めて考えよう」

 というのが、ミツルの結論だった。
「オレら男二人なんだし、こいつも散々蹴り入れられて弱ってるし、首絞めちゃえばいいんじゃね?」

 とヨシキは不服そうだったけど、結局、ミツルの言うことに従った。

 そして、アタシはエザキの見張りがつけられて、監禁されていた。カナの返り血を浴びたままだったS女の制服は脱がされて、その代わりにヨシキのダボダボのスウェットの上着だけを着させられた。アタシが着ていた制服はカナの血で汚れてしまった他のものと一緒に処分するんだとミツルは言った。

 スウェットはヨシキが着てもダボダボのやつだから、上着だけでも普段の制服よりも足が隠れるぐらいだった。

 戻ってきたミツルとヨシキは控え室の掃除をしていた。近くの焼肉屋からガンコな汚れを落とす機械やら洗剤やらをいっぱい借りてきて、カナの血の跡を拭き取るんだとエザキは言った。

 そのときは考えなかったけど、今、ミツルとヨシキの姿を想像するとけっこうマヌケだと思う。

 アタシは相変わらず口にガムテープを貼られたままだったけど、足の縄はほどかれていた。理由はおしっこを漏らされると困るからだった。

 二人が控え室の掃除にやっきになっているのに、こっちの部屋までアタシのおしっこで汚したんじゃしょうがない、とエザキが思ったからだった。

 その変わり、トイレに行くとき以外は、両腕を縛ったロープが、廊下側の窓の外にある柵につなががれていた。だから、窓は常にちょっとだけ開いていた。

 アタシがカナを殺して、

 ミツルとヨシキがその抜け殻を灼いて、

 そして、タバタさんがやってきて、工事現場に埋めた。
 
 まるでひどい悪夢のような一連の出来事を、アタシはやっぱり夢だったんじゃないだろうか、夢だったらいいのに、早く醒めたいのに。

 ああでも、やっぱりこうやってつながれているから、現実なんだなとか、

 そう言うことが、鈍くて痛くて苦しい頭の中を、グルグルグルグル回りつづけていた。

 どのくらい経ったのかはもう覚えていない。

 チャイムが鳴って、ドアをたたく音がした。

 エザキは無視をして、居留守を使っていたら、

「スミマセン、ヨシキサンニ、ワタセッテ、オヤブンカライワレテ、ナニカハ、シラナイケド、ワタサナイデ、モドッタラ、オヤブンニコロサレルネ」

 と片言の日本語が聞こえた。

「わぁったよ」

 エザキが鉄の扉を少し開いた先にいたのは、片言の外国人ではなくて、ショウだった。

 ショウはそのまま扉をぐっと開けた。エザキはバランスを崩して前につんのめった。そのすきに、ショウは中に上がり込んできた。

「ミヨリ、一体なにがあった!」

 と言いながら、ズボンのポケットからカッターナイフを取り出して、ロープを切りはじめた。

「テメエ、なにやってるんだ!」

 怒鳴りながら、エザキがショウに襲いかかった。ショウはエザキの下腹に蹴りを入れた。エザキがお腹を押さえて倒れ込むと、ロープが切れたアタシの腕をつかんで、

「逃げるぞ!」

 と叫んだ。

 アタシはうまく立てなかったはずだけど、ショウに引っ張られて外に出た。ショウはエレベーターのボタンを押すと、すぐにエレベーターが開いた。

 ショウが「閉」ボタンを押しまくった。

 すぐそこに、エザキが追いかけてきていた。

 でも、エザキがエレベーターの扉に手をかけるよりも先に、扉が閉まった。

 エレベーターが一階につくと、ショウはまたアタシの手をとって走り出した。

 ガンガンという鉄の音が聞こえてきた。エザキが非常階段を使ってアタシたちを追ってきているみたいだった。

 アタシたちがマンションを出ると、タクシーが通りかかった。

 ショウが手を上げてタクシーを止めた。

 シートが開くと、ショウは飛び乗ってアタシを引っ張り込んだ。

 マンションの出口にエザキの姿があった。

「とりあえず、出してください」

 走り出したタクシーをエザキは追いかけたけど、途中で追いつけなくなって力尽きた。

「すみません、千葉方面へ。これで、行けるところまで」

 そう言ってショウは一万円札を二枚、運転手さんに差し出した。

「ミヨリ、一体なにがあった? 嫌な予感がして、昨日の夜、カナのピッチに何回か連絡したけど、つながらなかった。ミヨリ、お前にも連絡したけど出なかったじゃないか。どうしたんだ」

 アタシは何も答えなかった。答えられなかった。

「それで来てみたら、様子がおかしい。デートクラブの方には誰もいないし、ミツルさんとヨシキさんが、控え室の壁紙まではがしている。大掃除にしては気合が入りすぎだろ? それで、カナがシャブをやってた部屋に来てみたら、廊下側の窓が少し開いてて、外の柵にロープがつながってる。で、隙間から除くと、誰かの手につながってるようなのが分かった。で、コンビニに行って、カッターを買って戻った。で、外国人のフリをして扉を開けさせた。ヨシキさんが下で壁紙はがしてるのは見ていたし、いるのは、子分のエザキさんぐらいだろうと思ったら、案の定だった。ヨシキさんと関わりのある売人みたいな感じで行けば開けてくれるだろうと。アイツ一人で良かったよ。二人いたら逃げられなかった。なあ、ミヨリ、本当になにがあった?」

 アタシは何も言えなかった。ショウが心配そうなのを見て、心が揺れたのは覚えているけど、それでも、アタシがカナを殺してしまったことは口から出てこなかった。

 結局何も言えないままで、一時間ぐらい経っただろうか。タクシーの運転手さんが、

「二万ぐらいって言うと、ちょうど津田沼駅あたりでいいですか。お客さんたち、なにがあったのか知りませんが、国道の途中とかで降ろされても困るでしょう。どこを目指すんだとしても、駅に降りた方がいいでしょう」

 と言った。

「そうですね。そうしてください」

 そう言ってまもなく、アタシが知らない駅のロータリーにタクシーは止まった。

 すると、ショウはアタシが裸足のままなことに気づいた。

 ショウは自分の財布の中を見て、「あと三千円か」と言った。

「すみません、近くでなんか靴買ってきますんで、この子を少しだけいさせてください」

 そう言い残して、ショウはタクシーを先に降りた。

 目の前には、渋谷みたいに大きくない街があって、でもアタシの知ってる調布でも府中でもないけど、雰囲気はだいたいそんな感じの街があって、でも知らない街で。

 アタシはカナを殺してしまって、

 そのカナをミツルとヨシキが灼いて、

 タバタさんが加わって、工事現場に埋めて、

 そして今、知らない街にいる。

 もうわけが分からなくて、本当にぜんぶ夢のような気がして、

 アタシはタクシーを降りて、フラフラとその街を歩きはじめた。

 どこをどう歩いていたのかも分からなかった。

 でもたしか、線路の上、改札と反対側の改札をつなぐ橋の上みたいなところを歩いていたときに、

「どうしたんですか。裸足じゃないですか」

 背の高い、女のおまわりさんに話しかけられた。


■二〇一七年(平成二十九年)十一月二十五日


 終電の終わった連絡通路。

 そこにいるのは、隠田と環たち、警察だけだった。

 明日の神話が、

 鮮やかな色彩に彩られた骸骨が、環たちを見下ろしている。

 静まり返ったその場所に、隠田の声が響き渡る。

「城ヶ崎満と成田芳樹は、加奈を殺した美頼も殺して、殺人事件そのものを隠蔽する気だった。だが、条件が揃わずにすぐには美頼を殺さなかった。加奈と成田が、ドラッグを使うのに使っていたマンションの一室に閉じ込めていた。その日、俺は何か胸騒ぎのような嫌な予感がして、加奈のPHSに電話をしたが繋がらなかった。美頼にもかけたが同じだった。翌日、様子を見に行った俺は、その部屋に美頼が監禁されているのを発見した。そして連れてタクシーで俺の家の方向に向かって逃げた。タクシーで行けたのは津田沼駅までだった。裸足のままの美頼に僅かな残金で靴を買ってやろうとしている間に、美頼はいなくなった。そして警察に保護された」

「そう、それが加奈が行方不明になって、美頼だけが千葉で見つかった経緯だったんだね。そして、美頼は何も話さなかった。そこからは、同級生だった私たちも知っていたこと。で、あんたはその後どうしたの?」

「美頼がいなくなったので、交番に聞きに行った。そこで先に美頼が保護されていたことを知った。俺は渋谷に女子中高生を対象としたデートクラブがあって、美頼と俺と付き合っていたその親友がそこに所属していたこと。連絡がとれなくなった二人を心配して、見に行ったら美頼だけが監禁されていたこと。そして連れ出したことを素直に話した。だが、それから、あのデートクラブが摘発を受けることも、城ヶ崎満と成田芳樹が監禁の罪で捕まることもなかった。恐らく……」

 そこまで言った隠田の言葉を、環が奪った。

「顧客の中に警察関係者もいた」

 隠田は静かに頷いた。

「もっとも、その警察関係者が誰なのか俺は知らない。加奈が所属し始めた頃、俺はデートクラブの内勤を手伝っていて、成田芳樹とその仲間とも面識があった。で、何かに使えるかもしれないと、重要顧客リストを自分のメールに飛ばしたことがあった」

「それが、城ヶ崎と成田以外の七人ってこと?」

「いや、巻紙は入っていなかったから、六人だ」

「警察関係者はその中には入っていなかった。別のリストに入っていたのか、俺が離れた後に入ったのかもしれない」

 隠田の言葉の先を、環が先回りする。

「他殺体の死体があれば警察は動くしかない。だから、城ヶ崎と成田は躍起になって加奈の死体を隠そうとした。逆に、多少の訴えがあったとしても、警察関係者とのパイプで握り潰せる自信が彼らにはあった」

「そういうことだ」」

……世の中、クソ過ぎて反吐が出る。

 隠田は話を続けた。

「俺は、しばらく加奈がどこに行ったのか、なぜ美頼があの部屋に監禁されていたのか知らなかった。俺はナンパ師をやめて、ホストのバイトもやめて、就活と卒論に専念した。真面目なレールに乗ることで、忘れようとした。研究室のコネで、なんとか製薬会社の営業職に内定することができた。だが、加奈がいなくなってちょうど一年経った頃、ガリガリに痩せた美頼に呼び出された。そして、その頃、美頼がつけてた日記を見せられた。

……俺は全てを知った」


●一九九八年(平成十年) 十一月二十五日 世良田美頼の日記


 あれから、アタシはどうしたらいいのか、ずっと考えている。

 もうそろそろ一年経つけれど、アタシの頭の中から、カナが、カナの黒い抜け殻が、

 コンクリートに沈んでいったトパーズが離れることはない。

 カナはアタシに殺されることを望んだ。

アタシの中にある完全体の自分だけになりたいと。

 あれから、ずっとアタシは体調が悪くて、もうなんにも食べられなくて、逆に振り切れたように冷蔵庫のものを食べ尽くして、嫌悪感に苛まれて、ゲーゲー吐いて。

 こんなアタシの中にだけいたって、カナは完全体じゃない。

 カナをほんとうの、完全体にするためには、どうしたらいいのか。

 すっと考えつづけてるんだ。


■二〇一七年(平成二十九年)十一月二十五日


「俺は、真実を知ったからと言って、どうにもできなかった。最初にできたのは美頼を責めたぐらいだった。だから、そのまま就職するしかなかった」

 隠田のそう言い終わった言葉の端にかぶせるように、環が話し始めた。

「だけど、あんたはその就職先を僅か一月で辞めている。その時は、周りから根性がないだの言われただろうけど、今となってはなぜか分かる。あんたが就職した製薬会社のグループは、洗脳的な新人研修を行い、二〇一三年に自殺者を出し、その両親に訴えられた。その研修は九十年代の終わり頃からやっていたということも分かっている。あんたが就職したのは一九九九年。あんたもこの研修を受けたはずだ。入社後、ゴールデンウィークの辺りに、宿泊施設に閉じ込められる。外部と連絡をとれなくしたその場所で、徹底的に罵倒され、過去のトラウマを思い出させられ、それまでの自己を否定される。そして、最後には新しい価値観を注入されて、生まれ変わらせる。だが、あんたの負っていた傷はそんな研修で使うには大き過ぎた。自分の彼女がドラッグに走り、それを止めることができないうちに、殺され、無残に処理されて埋められた。その傷を掘り起こすのは、あんたの心を壊すには充分過ぎた、そうだね」

 隠田は頷く。

「俺の心は壊され、激しい抑うつ感情に苛まれた。会社を辞め、家に引きこもっている時に、美頼から連絡が来た。

『カナを神にしたい』と。

 始めは、何を言っているんだろうと思ったよ。カナのために生贄を捧げたい、まずは、最初の原因である、カナの父親を殺したい、そう言われて、俺は美頼の思いを受け入れることにした。渋谷のNHK近くのホテルに呼び出して、俺が処方されていた睡眠導入剤を酒に混ぜて与えて、天井から吊ったロープにかけて、踏み台を蹴り飛ばした。そんな方法を選んだのは、完全自殺マニュアルで、一番首吊りが手軽な自殺手段だと書かれていたからだった。安易だったと思う。幸い、自殺と判断されてそれ以上の捜査はされなかったけれど、危ういと思った。それに、神を造るための方法としては、あまりに単純だった。そして、俺はヒプノセラピーに出会った。自分が治療を受ける以外にも、自ら実践するために学び始めた。そして、あの方法を思いついた

 そう、加奈は神になった。

 渋谷という街の地下に閉じ込められ、闇を統べている。

 一つ一つの準備に時間もかけたかったし、日蝕は闇が光を覆い、闇が光に勝つ日だ。その日に一人一人、生贄を捧げようと思った。

 そんなに上手く行くのか、さっきロッカーの前でそう言ったな。

 俺を見くびらないで欲しい。全ては上手く行った。面白いぐらいに術中にはまった。城ヶ崎と成田を呼びつけるのは少し難しかったけれど、その後の社会的地位のある連中は、昔、中高生が所属するデートクラブに通っていたことを家族や会社にバラす、その証拠にデートクラブの最重要顧客リストを持っている、そう脅すだけで簡単だった。強請る金もどうせ五十万とか百万とかにしておけば、金を払ってしまった方がたやすい、奴らはそう考えた。

 生活に困ってどうしょうもなくてやったとか言っておけば、同情してくれることもあった。普通に渋谷の居酒屋で酒を飲ませる。下手に出て、ビール一杯だけごちそうして下さい、とか言えば、厚かましいとは思われつつも、安い居酒屋なら社会的地位のある連中なら断らない。ゲームと称してうるさい場所でもできるような、簡単な警戒心を解く暗示をかける。

 警戒心を解かせた後は、神泉か代官山の近くに借りたウィークリーマンションかホテルの密室に移動させて、後催眠のかかり方を確かめる。ろくに眠らないで、仕事に戻らざるを得なかったのもあるから、あんたが言うように翌日まで後催眠暗示が残ったのもあるだろう。と行うか、少し寝たぐらいじゃ俺の暗示は解けないのだけれど。

 その時に、彼らの財布から運転免許証かキャッシュカードを抜いておく。

 翌日に俺の方から、忘れて行きませんでしたかと、連絡をする。

 彼らは取り戻すためにもう一度、俺に会わなくてはならなくなる。だが、俺の方が日蝕の前日まで都合がつかないと言う。

 そして、日蝕が起きる前日の夜にもう一度会って、酒を飲ませる。また密室に移動させて、今度はあんたが言ったように、後催眠暗示をかけた後、薬物を与える。そして、去勢恐怖を刺激し、バッド・トリップに誘導させる。

 最初、城ヶ崎を殺った時は、オウムがやったみたいにLSDを使ったけれど、違法薬物はその入手だけで、罪に問われる危険があった。そこで、当時はまだ違法ではなかった強力なフェネチルアミン系の薬物を乾燥植物に混ぜたものの存在を知った。まだ名前のなかったそれに、最初にヒネという別名を与えたのも俺だ。実父との関係を恥じて、闇に下った女神、男たちを去勢する女神、まさに神としての加奈に相応しいだろう」

 そう言った隠田の大きな影を、隠田と死んだ美頼が加奈と同一視した、明日の神話の骸骨の赤い目が見つめていた。

「加奈の父親の立花純一郎を殺した後に続くのは、デートクラブの関係者の三人当時の最重要顧客リストにあった六人と巻紙、そして梢子と夕子だったってこと?」

 環が聞く。

「そうだ。だが、美頼の体調が安定せず、入院していて抜け出すのに苦労することもあった。痩せすぎが高じて、立ち上がれないこともあった。二〇一〇年の早瀬の時から、夕子さんを使うことになった。『加奈への生贄』当初、信じたがらなかったが、美頼の日記を見せ、既に札幌の会社で働き初めていた、加奈の弟の俊也を殺すことを仄めかして協力させた」

 深夜の連絡通路に隠田の声が響き渡る。環にはやはり、今まで以上の意味を与えられた、明日の神話の骸骨の眼差しが気になる。

「あんたはともかく、夢見がちだった美頼が、神は神でもそんなおぞましい女神を加奈になぞらえることを許したね」

「最初は少し文句を言ったかもしれない。でも、それは僅かの間だった。なぜなら、美頼の望みは加奈を、生贄を捧げられるに相応しい、この世で最も強い神にすることだったからだ」

 環の視界には、骸骨の左側で、黄色く塗られた背景の中で、踊るように焼かれた人々が目に入った。

「さっき、あんたはあんたたちが殺した人たちは、復讐ではなくてあくまでも犠牲だと言ったね。犠牲とか、生贄とかがどうして必要だったの?」

「そう、それこそが、加奈を神で居続けさせるために必要だったものだ。加奈は『女子高生』という存在に対するオヤジたちの幻想と、それで儲けたいという業者、さらには、その女子高生にシャブを売りつけて、収奪したいというヤクザの欲望の犠牲になって死んだ。

 他人の魂を犠牲にする。

 もちろん、あんたのような警察官や、消防、そういう仕事の中には本当に必要な時には命に変えても使命を果たさなければならないこともあるだろう。だが、この国では、特に必要とは思われない場面でも犠牲を求められる。

 そうだろう。俺は新人研修で精神を壊された。後にあの研修中に自殺した奴もいる。殆どの奴は、あの研修を終えて、生まれ変わった新兵としてあの会社で働いて行く。でも、言うことを聞いてくれて扱いやすくなったとしても、主体性を奪われた人間たちが働く会社に未来はあるのか。上が間違った判断をしたら、粛々と従って間違い続けるだけだろう。そもそも、主体性がないまま働かされ続けて、長時間労働で精神を病んだり、挙げ句の果てには過労死したりする。

 加奈は、俺たちが味わった辛苦の前触れのように死んだ。

 あるいは、この国がずっと抜けきれない宿痾の中で死んだ。

 無謀な作戦で命を散らせた若者を美化するのも、その性的な果実をすすりながら、はしたない存在として唾棄するのも、同じ現象のコインの両面に過ぎない。

 そして、あらかじめ恵まれた時代に生まれた甘ったれた若者を、鍛えるためとか言うのは、後者から前者へ言い訳をスライドさせるために言われる。でも、結局は同じだ。使い捨てになったんだ」

 秋は環に言った「使い捨てにされた気がする」と。

 兄の卓也も環に言った「使い捨てにされる前の耐用試験にも耐えられなかった」と。

 沈黙が流れた。

 ただ、明日の神話だけがこちらを見下ろしている。

「巻紙は? 彼はデートクラブの顧客ではなかったと言ったよね」

 環が静寂を切り裂く。
「奴はSFじみた妄想のために、加奈たちを『身体はレイプされても心はレイプされない』存在とまで言い切った。援交少女は、心身の統一を失ったまま断片的に浮遊し続ける、それで良いのだと。古い価値観の人間を煽るためだけの、ただの逆張りに過ぎなかった。加奈の魂は傷ついていたし、それを救えなかった俺も傷つけられた。奴の幻想に俺たちは、いやあの時代の少なくない人間が振り回された。

 本当は、巻紙を生贄にするのは、一番最後にするはずだった。最後の生贄としては彼以上に相応しいものはないと俺は思っていた。本来は先にずっと殺し損ねていた江崎が生贄になるはずだった。俺たちに時間がないことが分かって、俺の完成された儀式の中で殺すには、江崎みたいなムショとシャバを行ったり来たりしている雑魚よりも、巻紙の方が相応しいと思うのは当然だろう。

 巻紙は警戒心が強くてね。最初の利き具合を試す時から、ヒネを使ってしまった。だから、もう一度入手するまで、江崎に与えられなかった。と言うか、高騰している危険ドラッグを再入手するための資金として、江崎に婆さんの形見を売らせた。

 そもそも、江崎は、俺が渋谷に戻った時点で、酷い薬物中毒になっていた。かつて、路地裏にあった脱法ハーブの店の常連でもあった。一度薬物に落ちた人間は、簡単に何度でも落ちる。そう、二〇一四年に違法になった時点でストックしておいた危険ドラッグをムショから出てきた江崎に横流しして、以前から資金源にしていたのは、あんたの言った通りだ。

 加奈の名前は、ドラッグを横流しする時の隠語だった。ヒネを手に入れるということが、『加奈に会う』という意味だった。それまで、招待状がなければ『会えない』なんて言うことはなかったが、巻紙に江崎に使う予定だったヒネを使ってしまったので、適当な嘘としてついたものが、招待状だった。ヒネを受け取りに、婆さんの形見の宝石を売って金を持ってきた江崎に、『今回からこれと同じ絵の描かれた招待状を持ってこなければ渡せなくなった』と見せたのが、あのメモ帳に描いた絵だった。江崎は聞いてないと納得しかねたが、薬物中毒で、記憶力も曖昧になっていたので折れるしかなかった」

「その招待状の絵を描いたメモを、遺失物やピンクチラシと一緒に分駐所に持ち込んだってこと? 舐めやがって」

 環がそう言うと、隠田は頷いた。

「そう、俺の中では生贄になる前の予兆として加奈の名前を江崎に仄めかせていた。
 だが、あいつは、城ヶ崎満と成田芳樹が灯油ぶっかけて焼いた死体の名前が、立花加奈であったことなんて忘れていたよ。

 取引の際にこちらから、前に一度会ったことがあると名乗ったことがある。それでも、本当に思い出したのかは分かりかねるままだった」

 ……いや、「カナという女に再び会ったことで引き戻された」と江崎は供述していた。思い出していたのではないか、と環は感じた。

「踏切で生贄にする方法がとれず、最初の加奈の父親と同じ殺し方で仕方ないと気が緩んだら、結局しとめ損ねたままになってしまったのは酷く残念だが。江崎に使う分のヒネを使ってでも、今年の皆既日蝕の生贄は巻紙でなければならなかった。

 巻紙は加奈に言った。『人間の心はいくらでもコントロール可能で、人間の脳なんてものは、洗脳や薬物を使って順番にボタンを押して行けば、そうなるようにプログラミングされている、臓器のカタマリに過ぎない』と。

 だから、俺は催眠と薬物を使って奴の心のボタンを順番に押してやった。加奈の生贄にするために。

 俺は奴らに『トパーズを拾え』と命じた、トパーズとはなんだと思う」

「……さあ」

「トパーズとは、奴らに決して拾うことのできない加奈の魂だ。
 奴らには、踏切板の錆びたボルトが程度で相応しい。
 踏切の警笛が鳴ると、バッドトリップで見せられた死の恐怖が蘇り、
『トパーズを拾わなければならない』という思いに駆られる。その背中を押すように、ヒネの使者として刷り込まれた、黒いワンピースの女が踏切の向こうに現れる。

 拾わなくては死んでしまう。

 でも、固定されたボルトを拾える訳などない。

 拾おう、拾おうとしている間に、

 加奈の胎内から鉄の塊が這い出て来る。

 そして、奴らの身体は比喩でなく、『断片化』される。

 鉄の塊に引きちぎられた奴らの身体は、一瞬この街に舞い上がる。

 そして、


 バラバラになった身体は、フワついた後に、地面に向けて投げ出される」


 隠田は、黄色い目を僅かに細めると、二重顎をほころばせて得意気な笑みを浮かべて、明日の神話を見上げた。

本文:ここまで

続きはこちら:最終回

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読者の皆様へ:

※この話はフィクションであり、現実の人物、団体、施設などとは一切関係がありません。

※警視庁の鉄道警察隊に渋谷分駐所は存在しません。渋谷駅、及び周辺でトラブルにあった場合は、各路線の駅員、ハチ公前の駅前交番、渋谷警察署などにご連絡ください。

※現在では、一九九九年に成立した児童買春・児童ポルノ禁止法において、
性的好奇心を満たす目的で、一八歳以下の児童と、性交若くは、性交類似行為を行った場合、
五年以下の懲役若くは五百万円以下の罰金、又はその両方を併科されます。
本作品は、こういった違法行為を推奨、若しくは擁護するものでは決してありません。


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