スルメ遺憾

海に戻りたい

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看板

2ヶ月ほど前、自分の病気にまつわる書類の資料を集めるため、電話帳や古いSNSをひっくり返し、学生時代や社会人になったころの知人に、わたしは片っ端から連絡や協力依頼をかけた。 過去をほじくり返すのはなかなかこたえる作業だったが、そこにはまた別の、いささか複雑な思いがあった。 小中学校の同級生は、ちょっとした事情で、その大多数がわたしが病気になったことを知っている。 高校は大学の付属校だった。その割に当時から続く人間は3人と多くないが、当然のように知っている。 大学時代は

    • 2週に1回の精神通院をしている。可能な範囲で家族に送迎を頼む。無理な場合は、最大限人のいない時間、あるいは始発などを選んで電車やバスに乗る。 …複雑な思いで親の看病をし、身がちぎれる思いで障害年金の資料集めや申立書を作り、夏は終わった。 知人と会うことはあまりない。4月の末から休職をしているが、一定時間人に会ったのは3回。当日以前に約束した機会は1度もない。人に会うのは、今や偶然に近いものがある。 日用品や嗜好品は、玄関を開けて徒歩1分の店でそろう。寝たきりとはいわない

      • 小さく死ぬ

        語り尽くされているだろうけれど、初めてまともに聞いた、森山直太朗の歌詞。「生きてることが辛いなら、いっそ小さく死ねばいい」。  死について考えることをきっかけに、みっともなくても生きていこうぜと、しつこいくらいに訴えている生命賛歌だ。それだけに、ここだけ取り上げて話をするのは筋違いなのだけれど、どうしても「小さく死ぬ」という表現に思いがめぐる。 この表現が、私には生々しすぎるのだ。 かつて私が睡眠薬を常用していたとき。まさにそれは「小さな死」を都度受け入れている感覚だっ

        • 私のゴーストが囁くのよ

          魂の重さが21gだとかいうガバガバ研究もあったというが、質量があるなら摘出できるのではないかと問い詰めたくなる。これは、どこに宿るとかいう問題ではない。 命とはなんだろうか。魂とはなんだろうか。辞書的な語義はともかく、本来この2つは不可分だ。病気がひどく、寝たきり引きこもりだったときの自分は、いわゆる「死んだも同然」という言葉が相応しく、そこに魂が宿っていたとは到底思えない。 では、命が終えたら、魂も終えるのか。特にスピでもなんでもないが、そうでもないかなくらいには思う。

          こんな夢を見た。

          わたしはひとを殺めた。言い逃れようのない罪だ。贖わなければならない、ゆるされてはいけない。そんなとき、何も知らない友人が、台風のようにわたしを旅に連れ出した。お前といると気を遣わなくてよいから具合がいいという。思いがけずわたしは、自ら逃避行へと歩き始めてしまった。 わたしは身を隠した。笑いながら旅を続け、行く先々で罪に罪を重ね、追手には目くらましをばらまいて逃げまどった。ふとした物陰でやつらはわたしを引っ捕らえんと待ちかまえていた。それでもわたしは、口唇をふるわせながら狡猾

          こんな夢を見た。

          コーヒーでもイカが

          ですかと声をかけて気軽に行ける喫茶店はもうほんと壊滅しましたよね。あふれるほどのチェーン店と、オシャレなカフェ(それはそれでいい)。 私は2010年くらいからコーヒーをドリップするようになり、元来のオタク気質が刺激されて、そこらじゅうのセミナーなどに通いました。のちに脱サラ(という名の病気由来の解雇)して、ごく一時期、かなりのゴリ押しでコーヒー業界に身を置かせてもらったことがあります。 雑誌でもサードウェーブなんて言葉が飛び交い、少しずつスペシャルティがもてはやされ始めた

          コーヒーでもイカが

          まだまだ暑いとは言っても

          ちゃんと夏の終わりを感じるのは不思議なものである。 サマソニ熱中症が話題になってて、夏フェスなぞを思う。今風なそれに初めて行ったのは97フジで、大学1年生だった。一言、若くて助かった。最後は06サマソニだろうか。28歳。遊び盛りだ。サマソニは2回くらい行った気もするんだが、本気で覚えてないから恐ろしい。 最先端の洋楽はホントわからなくなってしまった。細分化されすぎ。そんななかジャニだのニュジだの新しい風が吹くのは良いことで、一方ヘッドライナーはあんまり昔と代わり映えしない

          まだまだ暑いとは言っても

          生きづらさとは

          なんだろうか。私は私しか生きたことがない。ただ言っておくと、私は手帳持ちであり、いわゆるひとつのアダルトチルドレンで、HSPやらMBTIやらの診断テストなんかをやってみても、強力にアウトな結果が出る。生きづらさのオンパレード。 実際、現在進行系で様々な形の闘病生活は長く、とても同世代と同じ目線での話はできない。 そんななかでも、近年特にこりゃマズいなあと感じているのが「わかってほしい」病。こうしてnoteを書いているのもまさにその典型。 明確に治療が必要になった前後から

          生きづらさとは

          FFファンタジー

          などと銘打てば、いくらなんでもそんな間違いはありえないことくらい誰でもわかる。フォロー・フォロワー空想物語。 TwitterあらためX(ここはnoteだ)をやり始めてから、ざっくり10年は経つ。今のアカウントは2021年からとなっているのでたしか3つ目、2度は垢消しをした。 1度目は、当時のSNSの特性上しかたなかったのかもしれないが、リアルの知人が増えすぎてしまった。書きたいことやフォローするアカウントに気を遣うのが甚だ面倒だったし、実際リアルでトラブルがあって、やむな

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          世の中はなかなか

          望んだとおりには事が運ばない。でも、だいたい思ったとおりには帰結する。少なくとも私の人生はそうだった。 自制できているときでもそうでなくても、そうすることしかできなかったのが自分の限界で、よほど事故みたいな状況でもない限り、原因と結果に疑問を持つことがあまりない。 やってしまった、と思ったときにはもうそれは過去だ。事後にならないと後悔なんてできないわけだし、そして後悔したところで現実が改変されるわけでもない。東リベを読んでたとき、いくらタイムリープしてもヒナちゃんを救えな

          世の中はなかなか

          何を伝えたイカ

          なぜまた再びアカウントを作ってまでnoteなんぞを書き始めたかといっても、特に理由はない。時として140文字に収まるよう推敲するのは面倒だが、青い印をもらうような金は持ちあわせていない、せいぜいその程度の話である。続くかもわからない。 備忘録や内省といった目的だけなのであればメモ帳アプリでも使えばいいわけで、結局私は何かを書き伝えたいのだ。とはいえ対象が誰なのかはよくわからないし、特定の売りコンテンツを考えているわけでもないので、ある意味もっとも厄介な…中年独身男性のエッセ

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