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小さく死ぬ

語り尽くされているだろうけれど、初めてまともに聞いた、森山直太朗の歌詞。「生きてることが辛いなら、いっそ小さく死ねばいい」。 

死について考えることをきっかけに、みっともなくても生きていこうぜと、しつこいくらいに訴えている生命賛歌だ。それだけに、ここだけ取り上げて話をするのは筋違いなのだけれど、どうしても「小さく死ぬ」という表現に思いがめぐる。

この表現が、私には生々しすぎるのだ。

かつて私が睡眠薬を常用していたとき。まさにそれは「小さな死」を都度受け入れている感覚だった。強制的に睡眠を迎えて目が覚める保証はあるのか。生きて目覚めるのか、死して目覚めるのか。そんなふうに考えた時期もあった。

そして、死なない程度の傷で「小さく死ぬ」ことによって生を確かめる人は、悲しいかな一定数いるだろう。

縁のない人は混同しがちな気がするが、自傷行為と自殺企図/未遂は、必ずしも直結するとは限らず、似て非なるものだ。少なくとも私は違った。

その方法は人それぞれだろう。お決まりのアレやコレはほとんど経験がないのだが、たとえば私の両耳には10個以上のピアスが開いていて、全てではないが、そのいくつかには明らかに自傷意図があった。

あとは髪の毛剃るとか下の毛剃るとか、まあ色々。

他愛のないことに聞こえるかもしれないし、ポジティブな意図でしている人もいるだろうが、あくまで私の場合は、それ以前の自分を「小さく殺す」意味合いがあった。

それらの決別ののちに新しい自分にたどり着けるのならばいいだろう。だがあいにく私はそれほどドライにはなれずに生きている。

そうでなくても、毎日を心を殺すようにして終える人も多くいるだろう。

歪にツギハギされたフランケンシュタインのようになっていないか。穴だらけで血肉が抜けた空気人形になっていないか。幾万というパーツで構成されているだけの生体機械ではないか。

小さく死ぬのはあまりおすすめできない。



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