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私のゴーストが囁くのよ
魂の重さが21gだとかいうガバガバ研究もあったというが、質量があるなら摘出できるのではないかと問い詰めたくなる。これは、どこに宿るとかいう問題ではない。
命とはなんだろうか。魂とはなんだろうか。辞書的な語義はともかく、本来この2つは不可分だ。病気がひどく、寝たきり引きこもりだったときの自分は、いわゆる「死んだも同然」という言葉が相応しく、そこに魂が宿っていたとは到底思えない。
では、命が終えたら、魂も終えるのか。特にスピでもなんでもないが、そうでもないかなくらいには思う。
法事的なものに行った。読経をしてもらい、手を合わせお焼香をあげ、位牌を前に物思いに耽った。途端、在りし日…の記憶が瀑布の水のように頭の中に流れ込んできた。不思議な体験で、思わず微笑んでしまった。
そのあと、とある老婆に会いに行った。失礼ではない、あの人は間違いなくバーサンだ。
ただ、こちらが灼かれてしまうほどエネルギッシュな方で、傘寿を過ぎてなお進化を望み、そのための努力を惜しまない。魂が人の形で顕在化しているような人で、まさか体重が21gのはずがない。
私が40も半ばに相変わらず惑っている話をしたら、「あのね、そのくらいの歳になると、ぱーっと霧が晴れて、やるべきことがやっと見えたようなときが必ずきますから。気楽に」と。本当に論語を地で行くようなことを言う。
とんでもないサプライズで、その人生の大半を賭けて積み重ねてきた「現在」の知識と道具の一端を分けてもらえることになった。
早々にゆうパックが届き、今しがた取り急ぎ礼の電話をした。「たいしたもんじゃないんだから気軽に使ってくださいな」と。
界隈では生きる重要文化財みたいな人が、戦後身を立てたころから積み重ねた、技術と研鑽の現在進行系。命であり、魂だ。
訳知り顔の村人Aみたいな私が頂戴していいものではないのだけれど、気軽に使わせていただきます。
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