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看板

2ヶ月ほど前、自分の病気にまつわる書類の資料を集めるため、電話帳や古いSNSをひっくり返し、学生時代や社会人になったころの知人に、わたしは片っ端から連絡や協力依頼をかけた。

過去をほじくり返すのはなかなかこたえる作業だったが、そこにはまた別の、いささか複雑な思いがあった。

小中学校の同級生は、ちょっとした事情で、その大多数がわたしが病気になったことを知っている。

高校は大学の付属校だった。その割に当時から続く人間は3人と多くないが、当然のように知っている。

大学時代はサークルの付き合いが大部分だった。やはり先輩後輩含め、わたしの事情をまったく知らない人間はほぼいない。

会社員だったころの関係者は、わたしが病気理由で退職した以上、全員知っている。

2010年ころだろうか、スマホとSNSが急速に普及し始めた。精神疾患を4大疾病に加えて5大疾病にすると提言されたのが2011年。

わたしが通院を始めたのが2009年。1年無理やり仕事をするも破綻し、1年休職したのち、鬱を理由に会社を辞めた。

わたしの病気や退職は、自分が思うよりはるかにタイムリーな話題で、またたく間に知れわたった。

そんなこんなで、10年以上前のこびりついたSNS繋がり程度の同輩でさえ、大なり小なり、わたしの事情を知っている。

はたしてわたしの資料集めは、ひどくスムーズに運んだ。なにせ全員病気のことを知っているのだ。カミングアウトもクソもない。

もともとわたしは人付き合いはそつなくこなすけれども、けっして誰かの1番の仲良しにはならないようなフシがある。これは、幼少期からの根本的な気質だ。

今となっては、このおかげで要らぬ詮索をされずに済む。
なんだか寂しい話だがね。


病気でないわたしを知っているはずの旧知の人間は、皆わたしが病気だと知っている。逆にその後に知りあった、病気であるわたししか見てない人間の大多数は、わたしが病気であることを知らない。

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