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エンドロールのクレジット

過程が無駄になることはないだろうが、結果以上に物語ってくれることはない。

かれこれ20年近い期間で、私は何回退職の憂き目にあっただろう。長く過ごした友人や恋人が、憧れ心惹かれた人が、何人離れていっただろう。

地道に積み重ねた信頼や期待を、認めてくれたり手を取って引いてくれた人を、どれほど裏切ってきただろう。

あらゆるすべてが自分の病質のみに起因しているわけではないし、しかし切っても切れない因果があることは否めない。とはいえ、安易に「病気だからしかたない」と開き直ることには、長らく、そして今もいささかの抵抗がある。

それは、そうやって意地をはることは、どこまで正しかったのだろうか。そして、これから先はどうあるべきなのだろうか。

入院はもちろん、呼吸する化石のように過ごしていた時期もある。オムツ手前なときさえあった。それでもなお、まだやれるはずだ、もっと俺は戦えるはずだ…そんな残り火を頼りに這いつくばってきた。

受け容れることは避けては通れないし、重要だ。しかし、どこまで踏ん張るべきで、どこからは投げ出してよいものか。
むしろここに、私の病気の本質的な厄介さがある。

そういう思考の手詰まり感を少しでも打破できないものかと、私は去年から、診察とともにカウンセリングを受けている。

家庭・家族は、相談者という観点ではまったく機能しない。むしろ、最大のガンと言える。それ以外の友人・知人はみな賢いので、自分たちの精神衛生のためにも、踏み込むことを良しとしない。経費以外に利害関係のない第三者は、唯一といってもいい寄る辺だった。

そんな私でも、ほんの5年くらいほど前までは、必要だとおもう相手に必要とされ、生活を共にしていた。
これは仕事にしてもそうだろう。あの不世出の二刀流でさえ、必要とし、必要とされることでその立場を確たるものにしている。

依存しようにもそんな関係は昔からないが、寄り添い寄り添われ、それを糧とすることは甘美なものだ。自立や依存というものを明確に定義づけるのは難しい。

足踏みをし、戸惑い、自己責任感だけに溺れず、虚無と感傷に浸って、逃げるように眠る夢のなかでさえ、思考の螺旋からは抜けられない。せめて答えが垣間見えるまでは生きていたい。


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