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学校に行かないという選択。「教育の機能とは?〜子供たちとの対話〜」

家の中で、唯一とも言える自分だけのスペースであるPCデスク。
そこには、書き写した一枚のカードがある。

読んだ本や映画、日々の中で、「この言葉だ」と思ったものを書き写す癖がある。書き写す先は、手帳であったり、ポストカードサイズの葉書であったりする。ふとした時に、目にはいる場所に。
様々な言葉を書き写し、トイレの壁に所狭しと画鋲で留めておいたこともあったが、今は、そこにも一枚だけ。

以前、「嫌われる勇気」の著者である岸見一郎さんと古賀史健さんが世界出版1000万部記念の講演をされ、運良く参加できたことがあった。岸見さんがその講演会の中で、インドの宗教的哲人、精神教師、教育者、神秘家、ヨーギー、精神世界の著作家であるジッドゥ・クリシュナムルティの話が出てきた。その言葉に興味を持った私は、その帰りに一冊の本を購入して帰宅した。「子供たちとの対話」という本である。〈子ども〉と〈対話〉という言葉に惹かれ、即購入したのだった。


この本の一文を書き写し、いつでも目に入る場所に挿し挟んでいる。

「君たちは、親や先生たちが人生で何かに到達しなければならないと、おじさんんやおじいさんのように成功しなければらないよ、と言うことに気がついたことはないですか。教育の機能は、君たちが子どもの時から誰も模倣もせず、いつも君自身でいるように助けることなのです。」

「子供たちとの対話」より

教育の機能とは何だろう?

答えは、ひとそれぞれ、正解などないだろうし、正解を求めているわけでもない。

ちなみに、私は、教育とは、「邪魔しないこと」だと思っている。

夫の父親、義父は小学校の教師だった。定年後、彼は、「教育とはいかに教えないかだ。」と言ったのだそうだ。私はこの言葉が好きだ。

大人は、つい教えたがる。

教えてあげなければならないと、義務感を持っているのかもしれない。

自分は知っている、経験しているのだから、教えてあげなければ、と。

なんなら、教えてあげないことは、無責任なことだと思っている人もいるのかもしれない。

しかし、それらは、子ども自らが疑問に思ったり、興味を持つ過程を奪う危険性を孕んでいるのではないかと思っている。だから、「教える」のであれば、細心の注意と、子どもたちに敬意を払う必要があるのでは?と日々考えている。


この所、幼稚園まで片道20分ほどの道のりを、末娘と歩いている。

道々、蟻の行列に足を止め、草花の芽吹きに目を輝かせ、雲の形、風の具合、自分で感じたことを彼女自身の言葉で語られるのを聴いている。彼女のアウトプットは留まるところを知らず、20分間、ずっと喋り続ける。それは音楽を奏でているようにも、詩を紡いでいるようにも感じられる、なかなか充実した私と彼女の二人だけの時間である。

今日も二人で歩いていると、大きなカタツムリの殻が、道の真ん中にあった。人に踏まれたのだろうか。殻の端が砕けて割れいてる。そっと持ち上げ、中を覗いてみると、まだ中に、カタツムリが居るようだったので、土の湿った枯れ葉の上に移動させる。

それを見ていた末娘が言った。

「カタツムリが死んじゃったら、土になって、それが栄養になって、誰かがその草を食べて、また誰かが食べて、うんちになったりして、また土になって・・・ずっ~とぐるぐるまわっていくんだね。」

誰も教えていないこと。
彼女が日々の中で、感じ、何処かで見聞きし、知識として獲得したことを重ねていく。

学びとは、すべてに於いて、自発的なものであると思う。

自分で感じ、自分で疑問を見つけ、知ろうとする。

自分で試し、失敗し、さらに試す。

それを、地層の様に積み重ねていくことを、経験、そして、学びと呼ぶのではないだろうか。

子どもたちに余計なことをしないよう、彼らの邪魔をしないよう、目の前の言葉を自分の中で何度も唱える。

教えるのではなく、見守り、必要なタイミングで支えたり、背中を押したり、手を貸すこと。

いつでも、彼らが彼らとして存在できるよう、その支えるタイミングや力の加減を見誤らないようにと、この言葉を繰り返す。

誰かのようになる必要も、成功する必要も、ない。

あなたが、あなたであればいいのだから。


ヘッダーは、みんなのフォトギャラリー・Kuu*さんのお写真をお借りしました。ありがとうございます♪


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