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漫画みたいな毎日。「はじめに、はじまる、はじまりに。」

今日から4月。春は苦手だ。
様々な変わり目で、心が落ち着かなくなるからだろうか。

ほぼ日手帳の「5年手帳」を付けている。今年で3年目だ。夫がプレゼントしてくれたのを期になんとか続けている。一行の日もあれば、はみ出して書く日もある。数日書いていなくて、「この日は何があったっけ?」などと、思い出して書くこともある。

我ながらアバウト。

ご存知の方もいらっしゃると思うが、手帳の右下には、今までほぼ日のコンテンツや本の中で表現されてきた様々な方の言葉が記されている。

日々、記された言葉が自分にしっくりきたり、ちょっと救われたり、うん、そうだよね、と頷いたりする。

大人とか、子どもとかの育ちのこと、大人のやり残しや、子ども時代に出来なかったことを、大人になった今、取り戻そうと大人たちが躍起になるのは何故なのだろう。

春になると、このことをよく考えるようになる。
まぁ、ひとそれぞれなのだけれど。

大人がしあわせにならないと、子どもたちもしあわせになれない、という意見もある。それに従った場合、大人が自分のしあわせ探しに躍起になっている間、子どもたちの育ちはどうなっていくのだろうか、と私は思う。タマゴが先か、ニワトリが先か、みたいな話だなぁと、ジレンマを感じる。大人がどうにもならないなら、さっさと子どもたちだけしあわせになったらいいんじゃないかね?と、そんなことも思ってしまう大人嫌いの私である。

そんなことをぼんやりと考えつつ、日記を書いていると、右下に記されたこの言葉が目に入った。

わたしは「いてもいいんだ」という肯定感。
わたしは「いたほうがいいんだ」という歓び。それは、じぶんひとりでは確かめにくいものだ。「いてもいいよ」「いたほうがいいよ」という、声や視線が、「誇り」を育ててくれるかもしれない。

懸命に勉強をして、じぶんが「いてもいい」ことを、なんとかじぶんで探しだすことも、ありそうだけれど、ひとりでやるより、誰かに手伝ってもらったほうがいい。

糸井重里が『今日のダーリン』の中で


私が、子どもたちの育ちの中で、感じて欲しいのは、こういうことなのだと思う。

そして、大人がいるのは、子どもたちが、社会的には、小さな存在であると捉えられがちであるが故に「じぶんひとりで確かめにくい」ことを、十分に感じることができるためだと思っている。

子どもたちの環境として相応しい自分で在れるように。

そして、大人にとっても、そこそこ相応しい環境としての自分で在れるように、大人嫌いではあるが、努力しようと思う。

巡り巡って、子どもたちがしあわせに生きられるように。

できないことも、失敗もあるけれど、決して忘れないように。

相手を尊重する声と視線を。

新しい年度の忘備録。
はじまりの日に。

ヘッダーは、みんなのフォトギャラリー・みずたまさんの絵をお借りしました。みずたまさん、いつも素敵な絵をありがとうございます♪みずたまさんの絵に癒やされます。大好きです。

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