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あのとき働いていた映画館には、レジがなかった。

わたしは大学2年生の頃、映画館でアルバイトをしていた。映画館、といっても休日に家族連れが来る大型シアターの揃うような立派なものではなくて、レジすらもない、レトロの域を超えた、ちいさなぼろぼろの映画館だった。

それこそわたしの働いていた映画館は、風俗街のすぐそばにあるとあるデパート(にも満たないこれまた小さな商業施設)のワンフロアに作られたもので、ほんとうに映画館の周りだけ時が止まっているかのようだった。

今でこそその映画館は大手の映画館に統合されてしまって無くなってしまったのだが、まあそれも不思議ではないくらいには客足も少なく、シアター内に3、4人しか人が来ないこともザラだった。

当時古い映画館にあまり馴染みのなかったわたしは「入れ替え制ではない」映画館というものを初めて知ったのだが、真っ赤なビロードのシートも、やる気のなさそうな顔で映画を見ている客も、マイクを直に使ったアナログでのアナウンスも、全てが新鮮だった。チケットを買って、指定の席に座って、映画は一枚のチケットで一回しか観られないものだと思っていたわたしに取って、自由席で何回も観られる映画はすごくチートみたいだなと思ったけれど、その映画館に来る人はどちらかと言うと「居場所」が欲しかった人も多いのではないか、と今では思う。

「すなくじらさん、これ、映画始まる前のアナウンスして」

と言われてマイクを初めて渡された日に、わたしの目の前にはふたつのスイッチがあった。このスイッチは2つのシアターに直接つながるものだからね、と軽いノリで教えてくれた先輩いわく「間違えたら上映中のほうにマイク繋がるよ」とのこと。つまり、わたしがアナウンスを流す劇場のスイッチを間違えれば、片方のシアターでは作品が流れていても音声がかぶる。なんというアナログゆえの怖さなんだろうと震えながら、手に汗とマイクを握ったことは忘れもしない。

わたしがなぜ、いまこの記憶を想い出したのかは定かではないが、たしか友人と「今まででいちばん漠然と恐怖を感じた瞬間」について話していたことがきっかけだったと思う。

わたしが、この映画館のアルバイトを概ね気にいっていた。それでも唯一嫌だったことは、10時以降のレイトショーのクローズ作業の清掃だった。清掃の仕事は映画館の中--ロビー、カウンター、劇場内をモップや箒で掃く一般的な営業終了前の掃除だけれど--なにが嫌かといえば、全ての業務を「ひとり」で行うことだった。その日の売り上げが入った、手持ちの金庫をカウンター(今思えばセキュリティはガバガバすぎた)にしまい、ひとりでスクリーンの前に広がる椅子の間をモップ掛けしていく。わたし以外、本当に誰もいなくなってしまったのではないかと思えるような静寂の中で、なにもうつさぬ真っ黒なスクリーンだけが目の前に立ちはだかる様子はただ漠然と恐ろしかった。それに実際わたししか劇場に居なかったので、夜10時を超えてトイレなどに残った悪い客がわたしをどうにかしようとしたら、わたしは確実に捕まっていただろう。

ほんもののの無音を躰で感じたのは、後にも先にもあの経験が最期だったかもしれない。キュッキュッと自分の磨くモップの音だけが、クリアに映画館に響いて、冬は夜は劇場の暖房は切れているので息が白くなる。ひとつ一つの椅子の下を掃除すると、誰かの落とし物や食べかけのお菓子がどんどんと出てきて、なんだか自分と重ねてしまう瞬間すらあった。もちろんアルバイトの一環としてお金をもらって仕事をしているので、それなりにきちんとはやり遂げたけれど、どんなに1人が好きなわたしでも、あの「自分しか世界にいない感覚」はもう味わいたくはないな、と思う。


とある夏の想い出より。


2021.08.16
すなくじら

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