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BUMP OF CHICKENと私の人生

私の大好きなバンド、BUMP OF CHICKENがメジャーデビュー28周年を迎えました。
それに伴い、「ホームシック衛星2024」というリバイバルツアーが開催されています。

本当に、本当に、行きたかった!!!

姉が旦那さんとそのツアーのライブに参戦した日は、ハウスキーパーの仕事中、枕カバーのアイロンがけをしながら「orbital period」というアルバムを聞き、改めて感動させられ、涙しました。

ここで突然ですが、私の人生をBUMP OF CHICKENと共に振り返ってみようと思い立ちました。

かなり長い自己紹介というか、私の人生の歴史みたいになったので、興味ある方、お付き合いお願いします!

気付けば当たり前のように、いつもそこにいたバンプの音楽。

その始まりは、小学校低学年まで遡ります。
私には4つ年上の姉がいるのですが、その世代でバンプが流行り、姉がCDを購入して聞き始めたのがきっかけでした。

1番最初に好きになった曲は「sailing day」で、歌詞を覚えるまで、2人で何回も曲を流しながら歌っていたのを、今でもこの曲を聞く度に思い出します。

昔のアルバムから、最新曲のシングルまで、全部何度も聞きました。

どのくらい聞いたかというと、アルバムを聞くと、曲が終わって次の曲が始まるまで、少し間がありますよね。
その時に、次の曲の始まりの音が、頭の中に流れてくるようになりました。
次の瞬間、思った通りの音が流れ、「ああ、やっぱり!」という感じ。
曲名はぱっと出てこないんですけどね。


2008年4月12日、ちょうどボーカル藤くんの誕生日。
「ホームシップ衛星」というツアーに家族4人で参戦しました。
これが初めてのバンプのライブでした。

爆音で流れる音楽、心臓まで響くドラムの音。
当時9歳で、「メーデー」を聞いたこと、周りの大人達で全然メンバーが目視できなかったこと、ラストに大きな誕生日ケーキが出てきたことを記憶しています。

このアルバムのリバイバルツアーだったので、なおさら行きたかったんですよね!!
しかし、今ニュージーランドという、遠いところに居ることにも、何か意味がある、そう思いました。

次のライブは「WILLPOLIS」ツアー。
2014年5月3日、15歳でした。
このライブから、姉と2人で参戦するようになります。

中学生の頃、おそらく1番バンプを聞いていた期間だったと思います。
中1の誕生日プレゼントで、親にウォークマンを買ってもらい、ずっと聞いていました。

学校に行きたくなくて、でも、行かなきゃで。
特にいじめられていた頃、毎晩、何度も何度も「arrows」を聞きました。
時に悔しくて泣きながら、時に休まない自分は強い、偉いと自分で褒めながら。
この曲のおかげで、何とか辛い時期を乗り越えられました。

2016年7月16日、神奈川日産スタジアム「BFLY」ツアー。
今までは地元の新潟、朱鷺メッセで開催されたライブのみ行っていましたが、初めての遠征。
姉と2人で旅行のしおりを作り、ライブの翌日は、浅草とソラマチを観光しました。
ライブももちろん楽しみましたが、2日目の観光が楽しかった印象が、より強く残っています。

この時は18歳でした。
高校時代も相変わらず学校に溶け込めず、よくバンプを聞いて救われていました。
「ラストワン」「ファイター」が好きだったと思います。

バス通学の時間、ウォークマンで音楽を聞くか爆睡の2択でした。
また、お風呂上がりにドライヤーで髪を乾かしている間、大声で歌うのがマイブームでした。
学校のストレスを、それで発散していたんだと思います。



2017年12月9日、「PATHFINDER」ツアー。
姉が仙台の専門学校に通っていたため、セキスイハイムスーパーアリーナで参戦。

当時19歳で、私は新潟市で独り暮らし。
専門学校でも上手く人と馴染めず、バンプを聞き、救われていました。
この頃から少しずつ、ゆっくりな曲の良さが分かるようになってきました。

高速バスで仙台まで1本、4時間くらいだったかな。
仙台には、2年間で4回遊びに行きました。
おかげさまで、ずんだ餅が大好きになりました!

2019年7月13日、「aurora ark」ツアー。
埼玉メットライフドームに参戦。

私は21歳で、社会人1年目。
成田空港に勤めていて、姉も就職し東京に住んでいました。

同年、11月3日。
ツアーファイナルの東京ドームにも参戦。
コロナ前、最後のライブとなりました。

東京ドーム遊園地の観覧車で、期間限定でバンプの曲が流せたんです!
本当のツアー最終日は4日で、その日は遊園地で遊びました。
何回も観覧車に乗り、バンプの曲を歌いました。

職場までは電車通勤で、早朝からのシフトもあれば、深夜までのシフトもあり、という仕事でした。

ここでも周りと上手く馴染めず、一匹狼のような状況でした。
上手い世渡り、立ち回りが出来ず、コミュニケーションも上手く出来ず、良い人間関係も作れず。
いわゆる「お局さま」と呼ばれる類いの、女性社員たちから、よく悪口を言われていました。

夜遅くまでの勤務の後、ガラガラの電車でバンプを聞いては涙する日もありました。
この頃よく聞いていたのは、「飴玉の唄」と「話がしたいよ」「beautiful glider」でした。

この仕事は、2年間続けました。
取っ付きづらいであろう私にも、気さくに話しかけてくれるおじさんや、気楽に話せる人がぽつぽつ出来たり、私の群れないスタイルを尊敬してくれる年上の後輩ができたり、嬉しかったこともちゃんとありました。

それからはコロナ過で、ライブに行けなくなりました。

2個目の職場は、銀座のベンチャー企業の事務員。
1番辛かった職場でした。

残業が無かったのは、最初だけ。
あとは定時で帰れる日はほぼ皆無、帰宅してからも会社のパソコンを持ち帰り、深夜まで仕事をしていた時期もあります。
しかも、みなし残業制だったので、残業してもお給料は変わりません。

仕事量だけでなく、人間関係も最悪でした。
直属の上司とも関係が良くなく、会社の代表は独裁者的で、パワハラだと感じるほどの人格否定を人前でされていました。
また、総務の女性や、ビジネスマナー講習の女性などにも、私のミスやいかに仕事が出来ないかを共有されており、「頭がおかしい、当たり前のことが出来ない奴」と認識されていました。

本気で通勤するのが苦痛でした。
7ヶ月続けた自分が、今思うと本当にすごい!

もう少し早く辞めておけば良かったと思うのですが、当時は「1年以下で辞めると、次回転職する時に不利になる」と考えていました。
また、私は驚くほどタフなのです。
そのため、パワハラや最悪な人間関係があっても、どうにか続けていることが出来たわけです。

退職に踏み切れた出来事がありました。
群馬に1人で会社の用事を済ませに行った際に、ちょうど台風が来ていました。
バスを待っている時に局地的な大雨、風で全身びしょ濡れに。
下着まで全滅したため、駅のユニクロで全身コーデを購入して帰社しました。
その時に、ようやく「辞めよう」と思えました。
なぜパワハラを受けている時でなく、台風が私の背中を押してくれたのか、少し不思議ですが、直感的に思い立ったとしか説明出来ません。

ただ、有難いことにすごく良い出会いもありました。
一応別会社ですが、同じグループで隣のデスクだった、営業のおじさん。
3人息子さんがいて、「ザ・親父」。
いつも気さくに話しかけてくれ、映画や海が好きという共通点がありました。
お互いの誕生日や、私が退職する時も、プレゼントを渡し合いました。
退職日に、LINEを交換しようと言ってくれました。帰宅後、さっそくメッセージが届きました。

「自分には娘がいないから、サンさんが娘みたいな感じだったな 東京のオヤジより」

とても嬉しかったです。

実家に帰ると決めた時、ワーホリに行くと決めた時、ワーホリの経過報告。
節目でLINEを送り、私の人生を見守ってくれているありがたい方です。

また、同じ会社で週3で働いていた「おじいちゃん」。
かなり高齢だったのですが、体力的にも精神的にもとても元気で、スマホも使いこなすし、電気系の資格も持っている、人生経験豊富な方でした。

私が上手く会社に馴染めないのを気にかけてくれ、仕事終わりに飲みに連れて行ってくれたり、愚痴を聞いてくれたりしました。
LINEを交換して、同じく人生の節目で報告しています。

去年会社を退職し、何とまた別の会社で働き始めたと報告してくれました。
元気すぎるおじいちゃんに、すごく元気付けられました。
ワーホリでの写真を何枚か送ると、
「サンさんの顔が見違えるほど楽しそうで、笑顔が見れて嬉しい」
と返信してくれました。
東京のオヤジも、同じようなことを言ってくれました。
そんなことを言ってくれる人がいることに、心から感謝しています。


そして、私が入社して3か月後、新卒で同い年の男の子が入社しました。
良く出来た子だなあ、という印象でした。
コミュニケーション能力が高く、上司や同期、後輩、全ての人が好きになる人だと思いました。
そこまで仲良くなれたわけではなかったけど、たまには愚痴をこぼし合ったり、私が退社する際には、おじいちゃん含め3人でご飯を食べに行ってくれて、ウイスキーをプレゼントしてくれました。

ワーホリ中、語学学校を卒業する間際、彼からLINEが届きました。
「今年であの会社を辞めることにした。サンさんは今、何してる?」

ワーホリ中だということを、写真つきで報告しました。
「すごい!ワーホリでニュージーランド行きたいって言ってたもんね!サンさんがやりたいことをやっていて、すごく元気出た!ありがとう!日本帰ってきたとき、またご飯でも行こう」
めちゃくちゃポジティブな言葉をくれ、私もすごくやる気が出ました。

まず、あの会社に3年勤めたのがすごすぎるし、退職後は自分の会社を作るという、エネルギッシュな方です。

また最近、おじいちゃんとご飯に行ったと、写真つきでLINEをくれました。
既に自分で会社を立ち上げ、波に揉まれながら働いてる最中でした。

「おじいちゃんがサンさんに会いたがってた!帰国したら、3人でまたご飯に行こう!」
そう言ってくれる人がいて、本当にありがたい、恵まれているなあと感じます。

最悪な会社だったけど、この会社に勤めた7ヵ月は、無駄なんかじゃなかった。
そう思わせてくれる、素晴らしい方々と出会えました。

その後は、千葉のコールセンターで8ヶ月働きました。
派遣だったので、責任も軽く、残業もタイミング悪く電話がかかって来なければ絶対に無く、残業代も1分単位で支給。

クレームの電話などはストレスでしたが、その他の環境はかなり良く、同じ派遣の方は温和でゆるい方が多く、社員の方も優しく、初めて通勤が苦では無い職場でした。

しかし七夕の日に実家に帰ることを決意、6月いっぱいで退職。

そして2022年7月2日、幕張メッセ「Silver Jubilee」。
現時点で最後のライブです。

実家に帰る間際のタイミングということで、「銀河鉄道」を聞いて状況が自分と重なり、感極まりました。

あと確か、一曲目が「アカシア」だったんですよね。
キラキラした音から始まる大好きな曲で、久々のライブがアカシアからスタートしたのが、とても嬉しかったのを覚えています。

声出しはまだ禁止でしたが、バンプの生演奏が聞けるだけで充分でした。

実家に帰って、1年間ビジネスホテルのフロントでアルバイトをしました。
週5で毎日7-8時間働き、お金も全然使わなかったので、かなり貯金出来ました。

高校と同じ方面だったので、バス通勤で片道40分。
田舎の風景を眺めながら、アップルミュージックで音楽を聞いていました。
高校時代と違う点は、バス代がかなり値上がりしたこと、あまり爆睡しなくなったこと。

この頃よく聞いていたのは、「同じドアをくぐれたら」「Gravity」「クロノスタシス」「窓の中から」です。新曲多めですね。

実家に帰るタイミングで、約2年半付き合った彼氏と別れました。
別れる決断をしたときに何度も聞いた、「同じドアをくぐれたら」。
これからも大きな決断をするときに、聞くことになるでしょう。

また、この1年間は元々不仲だった家族と衝突することが多く、家の方が居心地が悪い状態でした。
家ではほぼ無言で過ごしていました。
常に精神が休まらず、強いストレスを感じていました。
そんな時でも、バンプの音楽はどうにか私を支えてくれました。

子供の頃は、バンプのゆっくりな曲はあまり好きではありませんでした。
「embrace」や「太陽」など、順番が来ると飛ばしていました。
しかし、年を重ねるにつれ、ゆっくりな曲の良さ、そしてバンプの歌詞の深さを改めて知りました。

聞くときの状況によって、気付けること、聞こえ方も全く変わってくるのが、とても面白い。

ワーホリ中に聞いた曲で、1番印象が強い曲は、「(please)forgive」です。
この曲、こんな歌詞だったのか!と、はっとさせられました。

「ただ怖いだけなんだ、不自由じゃなくなるのが」

まさに、ワーホリに行く決断が出来なかった、ここ数年間の自分だ、と感じました。

何もかも自分で選択できる、自由なワーホリ。
自由だからこそ、何も保証されていない、自分で全ての選択をし、責任を取らなければならない、怖さもあります。

ただ、そこを乗り越えた先に得られる自由。

自分で自分が「自由だ!!」と思えたのなんて、いつぶりだろう。
小学生以下の、まだ小さな子供だった頃以来のように感じます。

また、最新曲「sleep walking orchestra」の、「残酷なまでに完璧な世界」という1節が心に響きました。


ここで少し、私という人間の本質的な部分について、説明させてください。
私は「普通の家庭」とは呼べない家庭で育ちました。
幼い頃の家族の記憶と言えば、父が誰かしらに怒鳴り散らしているところばかり。
夕食を毎日家族4人で食べていましたが、必ずどこかの瞬間から、父がブチ切れるのです。
何が原因で怒鳴られるか分からないので、「いつ始まるんだろう」といつも怯えていました。
仕事のストレスからそうなっているのは、子供の私から見ても明らかでした。
怒鳴っている内容が支離滅裂で、しかもコロコロ主張が変わります。
「何でもいいからいちゃもんをつけて、怒鳴りたいだけなんだな」というのが、冷静に理解出来ていました。

父が怒鳴るのは、夕食時だけに限定されていません。
父が帰宅してからお風呂に入るまでの短い時間や、休日の場合、日中など、常に怒鳴られる可能性がありました。
自分が怒鳴られている時ももちろん最悪な気持ちでしたが、姉や母が怒鳴られている時、私は何も出来ず、ただじっと聞いているしかなく、辛く、悲しく、苦しい時間でした。

父に怒鳴られると、もちろん言い返したくなりました。
言われていることがおかしいからです。
しかし、私は途中で気付いてしまったのでした。
言い返すと、怒鳴られる時間=無駄な時間が長引くということに。

何歳だったか正確には覚えていません。
小学校中学年から中学生のいずれかだったと思います。
それに気付いてからは、言い返すのを止めましたが、それは並大抵のことではありませんでした。

簡単な例を作ってみました。
テーブルの上に、白い紙が置かれていたとします。
私は父に、「白い」と言いました。
父は、「そんなわけないだろ、黒だ!分かったか!分かったら返事しろ!」と怒鳴りました。
私は「絶対に白なのに」と思いながらも、それを心の底に力尽くで押し込め、「はい」と言う。

自分の意見を、自分で自分の心に押し込める。
私は元々すごく負けず嫌いな性格なので、簡単には出来ませんでした。
内臓がぎゅっと捩れるような感覚。
爆発的な怒り、言葉では表現出来ない程の悔しさ。
その感情を押さえつけるために、自分の太股を殴りつけるようになり、大人になってからもしばらくその癖は残りました。

私はその事実を、母に話しました。
「言い返さなければ、怒鳴られる時間が減るよ」
「確かに、サンの時だけ短いね。でもつい言い返しちゃうし、言い返さないのは無理だなあ」

当時は毎回言い返す母や姉を、愚かだと思っていました。
言い返さなければ、割と長引かないのに、何でわざわざ言い返すんだ。
しかし、今になって思えば、姉や母は至極当然のことをしていたんだな、と。

「自分」「意見」「感情」「心」

こういったものたちを、我慢して我慢して、外に出さないように押し込めていった結果。
私は学校や職場で、周囲から「ポーカーフェイス」だと言われるようになり、自分でもその自覚がありました。

感情が表に出ないのです。
悪い感情だけでなく、良い感情さえも。

心の中には確かな感情があるのですが、その感情と私の顔、体など表面的な部分の間には、とてつもない分厚い壁があり、表に現れません。
例えば、どれだけ自分が辛くても淡々としているように見えるし、楽しくても笑わないでいることも可能です。
自分の意見も、学校の先生や職場の上司には全く言えませんでした。
心の中に意見があっても、それを表に出すことが驚く程難しいのです。

どうやったら、表に出せるか。
私が出来た唯一の方法は、泣き喚きながらでした。
我慢して我慢して、いよいよ限界まで溜め込んだ時、突然泣き喚くのです。
そこでようやく、自分の気持ち、本音が言えるのでした。
しかし、泣きながらなので、もちろん上手く伝えることが出来ません。
自分でも自分が何を言っているのか分からない。
それどころか、自分の感情さえ分からなくなってしまうこともありました。

特に自分が辛い、悲しい、苦しい、または辛かった、悲しかった、苦しかったことを誰かに打ち明ける、という行為は最難関です。
そのため私には、辛い時に誰かに打ち明ける、相談する、といった選択肢はありません。
自分1人で抱え込む方が、圧倒的に楽なのです。
そして実際に自分で解決してきました。

自分の本当の本音の部分を話すこと。
私にとって何よりも難しく、辛いことでした。

ずっと父が大嫌いでした。
恨んでいました。
何でこの人が自分の父親なんだろう。
何でこの家庭に生まれてしまったのか。
何で母は、父と結婚し、私を産み、離婚しないのか。

しかし、父は私がなぜ父を嫌いなのか理解出来ず、そして私が父を嫌いなわけがない、とすら思っていたのです。
自分のことを1番理解してほしい親に、全く理解してもらえないことが、悲しくて苦痛でした。

しかし、本音を言えなくなってしまったのは、父のせいではなく、全部自分のせいだと分かっていました。

実家で生活した、ワーホリ前の1年間は、地獄のような1年でした。
父も年を取り、昔と比べ怒鳴る回数は減りましたが、私の心が父と再び生活するのを拒絶していました。
何度も、ヒステリックになり、自分を殴りつけながら泣き喚きました。
何度も、ベッドで1人、何時間も内臓が捩れる感覚に耐え、髪をむしったり、太股に留まらず頭を殴っては、涙をボロボロ流していました。
何度も自殺を考えました。
自分の部屋の窓を開けて、身を乗り出したこともありました。
日本出国日までを指折り数え、ギリギリの精神状態で生きていました。

正直、これを書きながら当時の記憶が蘇り、涙が滲みます。
ありのままの辛かった出来事を、アウトプットしているからかもしれません。

そんな状態でも、ビジネスホテルのバイトは普通に毎日勤務していました。
大雪で停電した時以外、無欠勤で通いました。
どれだけの苦しみを抱えていても、ポーカーフェイスを発揮して、外では普通の人のように振る舞えてしまうのです。
びっくりする程、タフなのです。

そんな地獄の1年にも、良い思い出もあります。
姉と草津温泉へ旅行したこと。
姉が旦那さんの都合で愛知県に半年転勤になり、一緒に名古屋を観光したこと。
母の手料理がやっぱり美味しかったこと。
飼っている猫とたくさん触れ合え、癒されたこと。
ピアノをたくさん弾けたこと。
タロット占いにハマったこと。
リンパマッサージに通うようになり、肩こりが解消し血圧が上昇したこと。
筋トレ、ヨガを習慣化できたこと。
たまには、平和な気持ちで家族と過ごせた日もあったこと。

ワーホリに来てから、「地獄だった」と思っていた1年間にも、良かったこともあったじゃないか、と気付けました。


こうして振り返ってみると、暗めの過去ですし、ワーホリに来る前の25年間は、長い長い迷走期間だったように感じています。
ただ、その中でも嬉しいこと、楽しいこともちゃんとあり、そのことに感謝しています。

今までは、「学生時代からやり直したい!違う家庭に生まれたかった!」と考えてしまうこともありましたが、最近ようやく「これでよかったんだ」と、心から納得できるようになりました。

辛い経験があったからこそ、楽しさ、嬉しさがより色濃く感じられるし、人の悲しみも理解できる。
何より、タフになれました。

辛かったこと、それがあったから、今のこの自分がいる。
辛かった経験を含めて、完璧なんだ。

私の過去の何かが欠けていたら、今の私はいない。

そして、ようやく私は、ありのままの自分が好きになり始めました。

まさしく「残酷なまでに完璧な世界」を、体感しています。


バンプ以外にも好きなバンドはたくさんいましたが、売れたり、曲調が変わったりして、聞かなくなったバンドが大半です。
ここまで波がなく、ずっと聞き続けているのはバンプだけです。
思い出深い曲、まだまだあります。

それはやはり、彼らが心に寄り添ってくれる音楽を、作り続けてくれているからだと思いました。
そして、かなり長い期間聞いているので、もはや人生の1部、無くてはならないものになっているのかな。


私はこれからも、BUMP OF CHICKENの音楽を聞き続けます。

帰国したら、またライブに行きたいな!


長くなりましたが、ここまで読んで下さり、ありがとうございました!!

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