私の膵臓をたべてください
もうめちゃくちゃに恋をしたことはありますか。
この人の全てを知りたい、そして受け入れたい。全てに触れ、全てを愛し、まさしく「君の膵臓をたべたい」気分になったことはありますか。
私、高校生の頃とても好きな人が居た。目も、声も、考え方も、全てが好きで、今思えばちょっと怖いくらいに盲目的だった。
これ以降、「盲目的に好き」という感情を抱いたことがない。年齢のせいなのか、それともそう思える相手に出会っていないだけなのか。
冷静に考えて、「あの人のことを考えると仕事も手につかない!」とか本気で思っている社会人は結構ヤバい(でもすばらしい)ので、「年齢のせい」説が私の中では有力です。
私は不憫なことに「盲目的な恋をした相手」と付き合ったことがなく、もちろんキスもセックスもしたことがない。
そんな相手とセックスするってどんな感じ?体がトロトロに溶けていく感じ?幸せすぎてこのまま死にたい感じ?なんて乙女ちっくな疑問もあったのだけど、20代も後半戦に差し掛かり、自分がそのような機会に恵まれることは、もうなんとなく諦めてしまった。
じゃあどうやって人を好きになるのか。
私は風俗嬢だったことをnoteでどれだけオープンに書いてみても、やはり「負い目」みたいなものを知らず知らずのうちに感じている模様。負い目が侵食していくと生活に支障が出るから、「風俗嬢やってたよーん」ぐらいのテンションで居るのだけど、やっぱり親や友達には言えない時点で「負い目」は「負い目」のまま私の体に居座っている。それは私が抱える人生の荷物みたいなもんで、形や重さはそれぞれ違えど、まあ生きてりゃ誰にだってあるもの。
そんな私が近頃 人を好きになるには、絶対的な条件があった。それは「受け入れてもらう」こと。
盲目的な恋をしていた高校時代、「君の膵臓をたべたい」側だった私。今や「私の膵臓をたべてください」状態。
自分から好きにならないと始まらない、追われるより追いかけたい!とか思ってた10代の頃が信じられない。歳を取ればいろんなことが変わる。考えも、体型も、そして恋愛も。
「自分を受け入れてもらう」ことで、相手からの愛情を感じるという変な癖ができてしまった。
結婚も恋人も「無」に丸がつく友達と話していると、よくこんな話題になる。
「すき」って、なんだっけ?
もう盲目的な恋などできない、受け入れてもらうにも説明がめんどくさい、説明したいと思う人にもなかなか出会わない、いろんな言い訳を重ねて私たちはとうとう「すき」迷子になった。
ちょっと婚活してみようと思い立ち、デートしてみてもどうやら結婚という制度にそれら(盲目的な恋や膵臓を食べられたい願望)は不要なようだ。見た目の可愛さ、内面の優しさ、あとは経済力とか家事能力が大切らしい。そうだよね。でも私は膵臓を食べてほしいのに。
こうして膵臓を捨てきれない私たちは「未婚まっしぐら!」と笑いながら、月曜日からまた仕事やら貯金やらに精を出す。だってなんとなく、不安だし。結婚できないことじゃなく、「すき」迷子なのが。
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