遠藤周作『沈黙』―将来の救済を信じる者は眼前の苦難をどう捉えるか―


 突然の苦難が襲ったとき、神による将来の救済を信じる信仰者は何を考え、どう生きるのか。このテーマの探究はユダヤ教・キリスト教の聖典とされる旧約聖書に収められている『ヨブ記』にはじまり、ごく最近ではテッド・チャンの短編SF作品でも取り上げられている。 キリスト教神学においては普遍的なテーマであり、カトリック作家遠藤周作もまた、このテーマを中心に据えた『沈黙』という作品を著している。この「将来の救済を信じる者が眼前の苦難をどう捉えるか」という問題は前述のキリスト教に限らずあらゆる宗教、ひいては政治においても極めて重要なものであるといえるが、遠藤周作の『沈黙』ではポルトガル人司祭の活動を中心にどのように論じられているだろうか。
『沈黙』では一五九四年のフランシスコ・ザビエル来日から約一世紀後の世界が描かれる。一六三八年に島原の乱が鎮圧されて間もないころの強烈なキリスト教弾圧の空気が流れる中、日本で棄教したと噂されるクリストヴァン・フェレイラ教父の安否を確かめるべく、ポルトガル人司祭ロドリゴは来日する。しかし、幕府や藩からの弾圧の中細々と信仰を保ち続ける日本人信徒、所謂隠れキリシタンたちが役人たちに凄絶な拷問を科され次々に殉教していく瞬間に立ち会い、自らもまた殉教の危機にさらされる。その激動の中で手を差し伸べることなく沈黙する神の存在を疑い、棄教していく過程が主にロドリゴの書簡及び一人称による語りというかたちで物語られている。


「将来の救済を信じる信仰者が眼前の苦難をどう捉えるか」という問題を扱う物語の原型である旧約聖書の『ヨブ記』ではどのようにこの問題が語られているのだろうか。
 まず、『ヨブ記』とはどのような文書であるかを改めて確認したい。ヨブ記は神の選民を自称するイスラエルの民がバビロン捕囚という有史以来最大の苦難にあったのをうけた文書である。この事件はイスラエルの民に自分たちが神の選民であるという自覚を疑わせ、同時にエホバは義であるかを疑わせた。そのうえで苦難を経てなお選民たる自覚を確固たるものとするためヨブ記は著されたのである。
この文書で扱われる論題について矢内原忠雄は次のように述べている。「ヨブ記の中心問題は、義しき人が苦難に遇ふとは何故か、との疑問である。之は、神が義であるとは如何なる意味か、との疑問と結びついて居た。この二つの疑問に答へるのがヨブ記の目的である。」 つまり、本来正しき人は幸福を享受し悪しき人は災禍を与えられると言われているにもかかわらず現実世界ではたびたび正しい人が損をして悪しき人が利を得るのは何故か、またそれでもなお神が正しいとはどういうことか、について答えているということである。この二つの疑問に対するヨブ記の回答は今回の論題に深くかかわっている。
 そのため私は、ヨブ記本文より二つの疑問に対するヨブ記の提示する回答を検討した。前者についてヨブ記の内容から読み取れるのは、神が義人に苦難を与えるのは義人が自らの信仰を誇り神が人を創造したことの有意義さを口に出した為だということであり、信仰は功利の価値基準にないこと、身をもって証明する義人の存在をしてはじめて神の栄光へつながるとヨブ記は述べている。後者については神の義というものは正しい人に対する福祉や安寧、もしくは悪人に与えられる災禍の中にも存在せず、人の生涯に表出するような結果の中に求められるものでもなく、ある場合には義人の苦悩や悪人の繁栄というような一見神の義それ自体と矛盾するような形で現れることがあるものである。が、神の経綸を全宇宙的、永遠的な広さかつ遠さで考えたときには完全に一貫しているということである。
 

 では、ヨブ記で提示された二つの疑問に対する回答を手掛かりに遠藤周作『沈黙』にみられる「将来の救済を信じる信仰者が眼前の苦難をどう捉えるか」という問題を読み解いていきたい。
 ポルトガル人司祭ロドリゴは来日後、自身を匿っていたトモギ村の住民であるモキチとイチゾウが水磔に処されるのをはじめに多くの日本人信徒の殉教を目の当たりにする。私が注目したのは日本人ではあるがトモギ村出身の人物ではないキチジローという登場人物の次のようなセリフである。「なんのため、こげん責苦ばデウス様は与えられるとか。パードレ、わしらはなんにも悪いことばしとらんとに」。この発言は前述のヨブ記の章で上げた二つの問題のうちの前者にかかっている。パードレであるロドリゴはもちろんのこと、キチジローをはじめとする日本人信徒もこの時点では誰一人として自発的に神の義に反するような行動はとっていない故、このような発言がなされると考えられる。しかし、この発言こそヨブ記中でヨブが自身の信仰を誇ったのと全く同義であるともいえる。言い方を変えれば、神がきわめてよかったとする創造物とはいえ、欠陥だらけの人間でありながらその欠陥を認めず、その信仰が盤石のものであると口にするのはあまりに驕った行動なのだということである。
これについてはヨブ記の中でもエホバの「非難する者エホバと争はんとするや、神と論ずる者これに答ふべし」(ヨブ40・2)という言葉によって、神の智慧の広さ、深さ、大きさ、高さに比して人間の智慧のいかに矮小であるかということが論じられていることからも、人間が神に対して疑問を呈すること、存在を疑うこと、自身の信仰の潔白さを誇ることがいかに神に対する人間の驕りによるものとされているかが読み取れる。
『沈黙』の物語終盤でロドリゴは、棄教し日本人として生きるフェレイラ教父と再会し、いよいよ自身が筑後守に棄教を迫られる。穴吊りの拷問を受け殉死するか、教えを棄てるかの究極の選択を迫られ、最後には教えを棄てる。この行為は『沈黙』中では幾度となく「転ぶ」と称されているが、この「転ぶ」という言葉は、秀吉の時代、一五八七年の伴天連追放令に代表される幕府の政策によって外国人のキリスト教宣教師が棄教させられ仏教に改宗させられたことから来ている。それを選んだロドリゴの決断に、私は前述のヨブ記の章で述べた二つの疑問、その後者に関係する思想があると考えている。
棄教を迫られたロドリゴは、自身と自身の周りの日本人信徒の祈りに対して神が救いの手を差し伸べず、完全な沈黙を貫くことに焦燥感を覚える。これもヨブが子息と家畜を失い、重い皮膚病を患ったときの行動、思想と似通っている。しかし、前述のとおり神の義というものは人間の価値判断の範疇では推し量ることのできるものではなく、ある時には義人の苦難、悪人の繁栄といったような形で表出するものなのである。私はロドリゴが棄教を決断する際にこのことを結果的に悟ったのではないかと考える。つまり、神の義に即する真の信仰とは踏み絵などの行為といった形式的なところには存在せず、ロドリゴが棄教したとしても、結果として転んだ自らの欠陥を真摯に受け止め、自身の信仰を誇らずただひたすらにロドリゴ自身と神のつながりを意識するということが神の義に即していたのだ。
キチジローは作中ではたびたび非常に弱弱しく描かれているが、『沈黙』という作品においてむしろ最もはっきりと立場を与えられている人物である。というのも、形式に固執せずただひたすらに謙虚に神を信仰する点において一度も自らの立場、態度を変えていない。彼以外の人物は悉く拷問の末に殉死するか改宗させられている。このキチジローの生き様というのは形式的な面で見たときは、ロドリゴのように思い悩むこともなく身体的苦痛に非常に憶病で、拷問を避け踏み絵を簡単に踏み転ばされている人物であるように映るが、「なによりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで充分である。」(マタイ6・33-34)という新約聖書に記されたイエスの教えを実践し、その言動はヨブ記で記述されている神の義に対しても全く反していない点で、この物語の中での真の信仰者像を示していると考えることができないだろうか。


 今回私が遠藤周作の『沈黙』を中心に取り上げた問題は「将来の救済を信じる信仰者が眼前の苦難をどう捉えるか」である。これは冒頭のとおり聖書の時代を皮切りに近現代文学にも描かれる重要な普遍的問題である。カトリック作家遠藤周作の人格を構成する要素の一部であると考えられる聖書の記述を持ち出しつつ、彼の作品からこの問題を検討することは、そのまま現代社会における大きな福音をもたらす可能性を孕んでいる為政者と現状の生活苦からの将来の救済を信じる市民の関係を論じることなどに応用できると私は考えている。
 ヨブ記においては義人が苦難にあう理由と神の義が正しいことの明確な理由は論証されていないが、ただヨブに苦難を与えた神も義であり苦難を得たヨブも義であり、神の義の現象である苦難は人間の価値観の罪でも尺度でもないことが記されている。それを受けて『沈黙』を読むとロドリゴが転んだのは神、キリストからすればあくまで形式的なことで、かつ拷問による殉死を選ぶことは広義での自殺に値することであると考えられる。神から授けられた身体を傷つけることは、それこそキリストの言葉に反しただろう。おのれの弱さを認め、転んだロドリゴはその後死ぬまで日本の名を与えられ日本人として死んだが、作者は転ぶ行為を経てこそ、すでに幾度も転んでなおキリシタンであり続けるキチジローのごとくロドリゴは真の信仰者となったということを読者に伝えたのではないだろうか。

 今回、『沈黙』について江藤淳が語っていた作品中に現れる「母性」のテーマまでは触れられなかったので、またそれについても検討してみたい。


参考文献
テッド・チャン. (二〇〇三). 『あなたの人生の物語』. (朝倉久志, 訳) ハヤカワSF文庫.
伊藤利行. (1996). ヨブ記における対話の一考察. 岡崎学園国際短期大学人間環境学研究所. 人間環境大学.
遠藤周作. (一九八一). 『沈黙』. 新潮社.
黒崎幸吉 (編). (一九四三年). 舊約聖書略註(中). 立花書房.
日本聖書協会. (一九八七). 聖書 新共同訳. 日本聖書協会.


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