忘れないでくれ、僕が出した音を。 忘れないでくれ、僕が放った声を。 忘れないでくれ、僕が生きた証を。 何者にもなれない僕らが遺すものはなんだろう。 すごくちっぽけな記憶だけじゃ飽き足らない。 誰も知らないことを知りたい。 皆知ってることを忘れてでも。 ねえ、何者にもなれないよ。 唯一の存在だって誰でもないんだ。 誰も知らないことを知ってたって 誰もそれを知らない。 ねえ、何になりたいの。 何がしたいの。 何を知りたいの。 僕は知ってるんだ。 僕が知ってる音はこんなもんじ
僕の頭の中には月がある 鈍く樟んだ月がある 僕の頭の中にはピアノがある 廃れた音を放つピアノがある 僕の頭の中には砂時計がある 終わりを知らない砂時計がある 僕の頭の中にはギターがある 錆びた弦のギターがある 僕の頭の中には万年筆がある インクは尽き、紙を削るだけの万年筆がある 僕の頭の中には箱がある ただ……ただの箱がある
僕達は深い海の底にいる。 僅かな光と何もかも押し潰す水圧の中でもがいている。 僕達は大海原へ浮上する。 確かな胎動の感覚、硬すぎた僕らの卵はもうすぐ突き破られる。 僕達は深い海の底にいる。 人生とは、何かを成すにはあまりに短く、ただ生きるにはあまりにも永い。 永遠を嫌った僕らの生命は何を遺す気なのだろうか。 知己が泣く息遣いさえ呑んで往く。 雪は枯れ、雨が萌える。 ここは海の底か?
なにかひとつ区切りが付いたり、大きな達成感を得たり、賞賛を得たり、信頼を得たり、全ての"成功"に分類されるものを味わう度に環境への感謝を感じる。 先輩も後輩(大学ではまだいないけど)も同級生も恩師ももちろん家族も、全員が俺の成すことの因果関係の中に深く関わっていて、俺が単独で成し遂げた行いだけを抜き取ってみると非常に呆気なく、「こんだけ?」と思わず言いたくなってしまうような事ばかり。それが嬉しいことなのか、悔しいことなのか以前は決めかねていたがようやく真正面から感謝が出来る
喉が渇くことが減った。 満たされていることが増えた。 楽器を演奏することの楽しさを思い出している。 自分の不甲斐なさに落胆することが減った。 自分よりも楽器が上手い人を認められるようになった。 他人から褒められて素直に喜びを感じるようになっている。 ジャズの恐ろしさを知った。 自由であることの恐ろしさを知った。 拒まれないこと、それは呑み込まれること。 なんでも認められること、それは消化されること。 勝負ではない世界。 楽しさが優先される世界。 幸せを追求すること、潤いを求
自分が本当にしたかった事ってなんだっただろうか。 ひたすらに他人のために歩いて、手を動かして、頭を動かして、苦心して、という日々が続いている。 親を安心させるために今の大学に入った。 その中でも少しの反抗心が今の学部に繋がっている。 人間の研究がしたい。 人間の文化の研究がしたい、人が作る芸術はあんなにも美しいから。 なんのために楽器を持ち続けているのか。 初心忘れずってなんのためだろうか。 驕ってはいけない理由とは。 自分が本当に作りたかったものって何だろう。 歌が無いと、
どうしようもない寂しさで目が覚めることがある。 その日は決まって快晴で、世界は明るく、僕のことを1人置いていってるようで、途方に暮れてしまう。 世界は残酷だって。 朝日が昇るより、涙が落ちるよりも遅く、崩れていった希望は巡り巡って明日に生きたい誰かが生きるための糧となるのだろうか。 カーテンの隙間から朝の光が漏れ出す。 あなたがゆっくりと崩れてゆく。 いつかの憧れで、居て当たり前の人で、愛の人だった。 尊敬出来る人だった。 あなたがゆっくりと崩れてゆく。 僕はそれを止
不自由や不満足、充実感の欠如、その他諸々の欲求不満が創作においてやはり必要なのかって思う。 逆に自分の中に受容させ続けることが出来ないほど美しいものに出会うことも創作の起爆剤であって、そういった不でも正でも受け止める器が大きすぎると自己解決しちゃうから作品は出来にくいのだろうか。 人間として不安定な人ほど途方も無く綺麗な芸術を作ったり、逆に生活がすごく満たされている人が作る芸術はあまり支えらなかったりするのも、それが関わるのでは無いかと思う。 受け止める器を大きくして社会人と
noteで皆の文章を読んでると皆の個性が出ていて面白いな、と思う。 夢想的だったり、厭世的だったり、儚くて切なくて等身大の祈りだったりする。 僕の文章はどんな色があるのでしょうか。 どんな触り心地がするのだろう、どんな匂いと声なのだろうか。
こういうのをメモでも独り言でもない感じで残していこうと思います 洋楽とか聴くと色々気付きます。 今日の気付きは曲における使用言語の違いで出来る曲の違いです。 僕たちが使ってる日本語はまあご存知の通り子音と母音の組み合わせでひとつの文字を表してその文字の並びによって単語を作ります。 その文字は基本的にひとつの文字につきひとつの発音でその長さは大体一緒です。 例えば "あ" と "く" の発音にかかる時間は一緒で、 だからこれを曲の中で歌詞として登場させる時には基本的に1文字
「今日も駅前の高架橋の上を歩く。刻刻と沈んで往く夕陽より鈍く下って往く。夜ではないのならば、何も滞りは無い。 明日という存在がどれほど心身のその両方を蝕んで往くのか、そして、精神と身体は既に別の場所に在る。精神と肉体、理想と現実、思想と妥協、創作と失望、その乖離と融合、余りにも甚だしく数多で、嘲笑うかのような喧騒は眼下に望む鉄の猛獣達の足音に他ならない。全ては自己の世界に他ならない。下らない言い草も全ては泡沫と化す。 夕陽は刻刻と沈んで往く。 言葉が確かに人の発明ならば
やっぱり芸術は日頃からインプットしないとアウトプットが上手くいかない 絵も文章も演奏も作曲も ところで「演奏者とは芸術者であるか」という命題を友達と話したことがあるのですが 皆さんはどう思いますか
なあ、月よ 僕を高く、高く、高く持ち上げてくれ そこから見える景色が見たいのだ なあ、海よ 僕を深くに誘ってはくれないか 何もかも見たくないのだ 歩き疲れたあぜ道を 止まることなく更に往く 僕らの家はもう遠く 壁に残されたあの写真 歩き疲れたあぜ道を 振り返ることなく更に往く 雨は蕭々と降っている ただ荒野に降っている 太陽も海も月も、信ずるに足りない 剃刀の刃には昨日の青空だ 僕の声がまだ聞こえるかい? 荷物はもうまとめたかい? 歩き疲れたあぜ道を 止まることなく
受験期に入って楽器と音楽から離れている時間が長く続いているんだけど、だからこそ気付けることっていっぱいあるよね 例えば、5年以上吹奏楽やってたけど実は性格にめちゃくちゃあってませんでした、とか たまに部内で「なんかズレるな」って思うことがあったんだけど多分このせいだよねえ
国道沿いを歩く ファストフード店の眩いネオンとコンビニの裏から昇る煙草の煙が背中を押す 突如、目を刺す自動販売機の灯り 時折、鳴り響くトラックの轟音 ひとりきりに成る為に冷たい空気に飛び込んだのに、これじゃまるでいつもと何も変わらない ガソリンスタンドの蛍光灯は白 信号機は不気味な青緑を放つ 信号機が赤に変わる 刹那、全ての音が消える その交差点の喧騒は死に、床は真っ赤に染まった 時が止まったような気がした …………海に行こう いつからか、僕は海に心惹かれる
自分を一言で表すなら多分この言葉がピッタリです 旅って良いよね 特に電車か歩きが好きです 歩いていると細かいところに目が行く 小さな発見が心を落ち着かせてくれたりする 電車が好きなのはシンプルに名前の響きです 全然嘘で、それだけじゃなくて景色が良いから好きです 車道と違って線路って周りの建造物から独立してるから歩いてる時と近い、いやむしろ自由な感じがする 本当は線路の上しか通れないから徒歩の方が遥かに自由なんだけど景色のど真ん中を走っていく感じがする電車は本当に大好き 前部活