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うつ病と私 ~6年半の記録~

 私は現在、長い間患ったうつ病が(恐らく)寛解(治療を続けながら、病気の症状がほぼ消失した状態のこと)しています。定期的に通院していますが、フルタイムで仕事にも行けています。この記事では、私がうつ病になる前から現在までの闘病記録を綴りました。長文になりますが、目次を設けましたので、興味のある部分だけで読んでいただけると嬉しいです。また、現在うつ病やその他メンタル疾患で苦しんでいる方に少しでも役に立てばいいなと思っております。

1.最初の異変

 私は大学卒業後、平成26年4月に地元の市役所に入庁しました。入庁したての頃は、定年までこの市役所でバリバリ働くぞ!!と意気込んでいました。しかし、私に与えられた仕事は、書類の整理をするなど雑用ばかりでした。まぁ、最初だから仕方ないよねと思い、目の前の仕事を一生懸命取り組んでいたことを覚えています。
 最初の異変に気付いたのは、入庁数ケ月後のことでした。朝中々起きられず、身体も怠く、食欲もありませんでした。ただ、職場に着いた頃には元気になるので、「朝が弱くなったな。」、「低血圧気味なのかな。」くらい思いあまり気にも留めませんでした。勿論この時は、私がうつ病になるなんて1ミリも思っていませんでした。しかし、今考えてみるとこれがうつ病の前兆だったと思います。

2.入庁2年目、ブラック上司B係長がやってくる

 直属の上司が代わり、短気で評判の悪いB係長が人事異動でやってきました。最初の2ヶ月は、普通の上司でしたが、2ヶ月を過ぎたころから私に八つ当たりするようになってきました。所謂、パワハラです。毎日毎日怯えながら、仕事をしていました。また、仕事量も一気に増え、深夜まで残業することも多々ありました。酷い時には、月に約140時間残業をしていました。
 そんな夏のある日、職場の飲み会で泥酔して帰った時のことです。飲み会の途中からほとんど記憶がなく、どうやって帰ったかも覚えていないほど酔っていました。私は実家に住んでいますが、泥酔して過呼吸になっている私を心配した母が救急車を呼びました。自力で立つこともできなかったので、担架に乗せられて運ばれている最中に、しきりにこう叫んだそうです。

「仕事、イヤなんよ!仕事、嫌なんよ!」

その時の記憶は少しありますが、母は鮮明に覚えているそうで、よくこの話をしてくれます。そのくらい当時の私は追い詰められていました。
 休日出勤をしていたある日のことです。私は市役所の3階の窓から眺めて、ここから飛び降りて死んでしまえば、B係長と仕事から解放されるかなという希死念慮が芽生えてきました。また、自室で首を吊ろうと試みたこともありました。
 しかし、自分を奮い立たせて、B係長のパワハラと長時間労働に耐えて仕事に臨んでいました。58~59㎏あった体重が数ヶ月で、54・5㎏まで下がっていました。この頃から私は、うつ病ではないかと疑うようになりました。しかし、病院に行って診てもろうという発想はありませんでした。今考えてみると、早く病院に行って治療し、こんな役所早く辞めてしまえば良かったと思っています。そうすることによって、うつ病を長い間患うこともなく、別の職場で健康的に過ごせたことに違いありません。

3.自立神経失調症と診断される

 そんな中、ある勤務していた日のことです。仕事にも集中できず、身体も重たく、とても仕事のできる状態ではなかったので、早退しました。その日の夜、寝ようとしても涙が止まらず寝付けませんでした。もう心身ともに限界に達していたのです。なんとか寝つけたものの、翌朝、仕事に行く気力はありませんでした。ようやく近くのA心療内科に行くと、「自律神経失調症」と診断され、2週間の休暇が必要とのことでした。休職の手続き済ませ、家でのんびり過ごしました。休職中は、横になったり、少し散歩に出掛けたりして、体調は徐々に回復してきましたただ、趣味の将棋を楽しむ気にはなりませんでした。
 2週間なんてあっという間で、休職期間が終わりました。まだまだ体調は万全ではありませんでしたが、自分を奮い立たせて職場復帰しました。職場復帰する日の朝は、吐き気がすごく、勿論食欲もありませんでしたが、親から甘ったれるなという趣旨のことを言われたのを覚えています。今振り返ると、職場復帰は早すぎたと思います。また、自立神経失調症ではなく、うつ病の始まりだったと思います。なぜなら、抑うつ気分が続き、興味関心が喪失しており、その他うつ病の診断基準に当てはまる点が多いからです。
 職場復帰後、相変わらずB係長のパワハラはありましたが、残業時間が減り、なんとか入庁2年目を終えることができました。

4.転機

 入庁3年目、私が人事異動になりB係長とあの膨大な仕事から解放されました。人事異動発表があった時、人生で一番嬉しい出来事ではないかってくらい嬉しかったのを覚えています。異動先の部署は、人が良く仕事量も適度で、問題なく過ごせていました。もううつ病(自律神経失調症)は完治したものだと思っていました。しかし、入庁4年目の秋頃から次第に仕事量が増え、残業時間も増えてきました。朝の倦怠感と食欲不振が顕著になってきました。

5.残業月200時間で壊れる

 入庁5年目のことです。平成30年7月豪雨災害が発生し、その対応に追われました。
来客対応に追われ、ひどい時には、電話とお客さんが同時に3人を相手にしないといけないほどの多忙さでした。事務仕事は日中ほとんどできずに、夜の残業時間でそれをこなしました。7月~8月の残業時間は、最大値を取ると月に約200時間も残業していた。過労死ラインが月100時間と言われているので、約2倍も残業していたことになります。
 朝が来るのに恐怖を覚え、なかなか寝付けませんでした。朝起きるのが精一杯で、カロリーメイト一つ食べるのにも30分近くかかる程、食欲もなくなっていました。また、朝は特に強い疲労と憂鬱感もひどかった。豪雨災害発生から約3週間で2㎏体重も減っていました。
 親の勧めもあり、3年前にお世話になったA心療内科を受診することにしました。そこで、薬を三種類処方されました。ところが、体調不良は、良くなるどころか、悪化するばかりでした。考えが全くまとまらず、来客対応をしていても、全く耳に入りませんでした。まさに、右から左に抜けているようでした。ついには、自分の人生が無意味なもののように感じるようになり、消えてしましたいと思うようになりました。
 そんなある日、強い憂鬱感と疲労から、午後から休暇をいただくことにしました。その翌日も、同様な状態が続き、仕事に行けませんでした。再度A心療内科を受診し、「心因反応、抑うつ状態」と診断され、1ヶ月半の休職することになりました。休職中はのんびり過ごすことができ、段々回復していきました。散歩にもほぼ毎日行っていたのを覚えています。

6.転院先で、適応障害と診断される

 休職してから1ヶ月半後、体調は改善され、職場復帰をしたものの約2ヶ月で症状が再燃してしまいました。今考えてみると、まだまだ休職する必要があったと思います。自分だけが職場から取り残されるという不安と焦りが先行した結果、焦って職場復帰し、再燃してしまったと考えています。
 症状が再燃したので、A心療内科で診てもらいました。その時の先生の対応が酷かったのを覚えています。私の症状もほとんど聞く耳を持たず、「はい、はい、はい、わかりました。」と適当にあしらわれ、最後には「診断書いる?」と他人事のように扱われました。もうこんな先生に診てもらいたくないと思い、B心療内科に転院しました。
 平成30年11月、B心療内科で「適応障害のため1ヶ月の休養を要する。」といった旨の診断書が出ました。適応障害とは、生活の中で生じる様々なストレスにうまく対応することができず、抑うつや不安感などの精神症状が現れて日常生活に支障をきたす病気のことです。自分では完璧にうつ病だと思っていたので、納得はいきませんでしたが、診断の通り1ヶ月休職することにしました。休職後、最初の1~2週間は、身体が重く、何もする気になれず、ほとんど寝込んでいました。ただ、朝が一番しんどく、夕方になると少し改善される日内変動が大きかったです。少し元気になってくると散歩に行ったり、趣味の将棋をして過ごしていたのを覚えています。しかし、休職期間が終わろうとすると、また体調が悪くなり、休職期間が延びるといったことを繰り返していました。今振り返ると、市役所というところに対し、拒絶反応を示していたのかなと思います。

7.退職を決断

 そんな休職期間のある日、母から「市役所辞めても良いよ。」と言われました。私はハッとしました。そう、すべては市役所に入ってから自律神経失調所や適応障害等を患ってきたのです。原因となる市役所を辞めてしまえば、回復するのではないかと気付きました。早速、退職の手続きをして、平成31年3月に辞めることにしました。辞めると決まってから、不思議なことに体調の良い日が続きました。転職活動も上手くいき、隣町のI株式会社に内定をいただきました。

8.送別会での出来事

 体調も回復してきたので、先生と相談の上、辞める直前の3月中旬に職場復帰しました。私のために、送別会をして下さるとのことなので、出席しました。本当に酷い送別会でした。ある先輩Kからは、「すいきちは仕事から逃げた。」、「自分が若い時は、もっと大変だった。何が大変だったの?」、「すいきちは簡単な仕事しかできない。」等々ボロクソに言ってこられた。また別の先輩Dからは、「すいきちがI株式会社で勤まるはずがない。3ヶ月続いたら、お祝いしてやる。」と皮肉を言われました。
 5年間勤めた市役所です。もう少し労いの言葉をかけてもらえるのかなと思っていたら大間違い。やはり、メンタル疾患は甘えとして世に認識されているが故だと思います。まぁ、あんな市役所辞めてよかったとつくづく思っていますね。

9.民間企業転職後も休職と復職を繰り返す

 平成31年4月からI株式会社で働くこととなりました。最初の3ヶ月は、1日も休むことなく勤務できていました。しかし、段々忙しくなっていき、令和元年8月に症状が再燃したのです。当然仕事にも行けなくなり休職せざるを負えませんでした。しかし、1ヶ月も経てば、仕事に行けるまで回復し、復職しました。だが、また数ヶ月後には再燃し、令和元年11月から再び休職することになりました。今、振り返ると仕事を頑張り過ぎていたのと、飲酒がいけなかったと思います。また、体調が回復しているのではなく、まだ回復期の段階だったと考えています。
 休職中、上司との面談でこんなに病気を繰り返すなら、大きな病院に転院してみてはどうかと助言をいただきました。上司の助言の通り、C病院の精神科に転院することにしました。

10. ついに、うつ病と診断される

 C病院の先生は、熱心に私の話を聴いてくださり、今までの先生とは違い、薬を出すだけでなく色々指導していただきました。休職期間中に、リハビリ出勤をしたもののまた再燃したので、傷病手当金をいただきながらゆっくり焦らず休職することに決めました。そして、今年3月に「うつ病」の診断がついに出ました。私のうつ病の特徴は、前述した部分と被る点もありますが、主に次記の通りです。

① 朝の倦怠感が酷く、食欲がない
② 寝すぎてしまう過眠 ※多くのうつ病患者は不眠を呈する
③ 疲れやすい
④ うつ病の症状が最も悪い極悪期が短いが、回復期が長い ※回復期が長いことで、寛解したと錯覚してしまう
⑤ 死のことについて考える希死念慮をしてしまう ※ただし、極悪期に限る

 先生は、頑張り過ぎないこと、散歩をすること、症状が悪い日でも落ち込まないことなど様々な指導を受けました。

11. 休職中の過ごし方

 先生の指導を踏まえ、休職中は下記のように過ごしていました。
① 毎朝散歩する ※雨の日や体調がものすごく悪い日は除く
② 禁酒
③ 先生から処方された薬を必ず服薬
④ 元気な時は、趣味の将棋をする
⑤ 夜10時~10時半に寝て、朝は6時~7時に起きる

 体調の波はあるものの、段々良くなりリハビリ出勤ができるまでに回復しました。

12. リハビリ出勤を経て復職

 令和2年6月、リハビリ出勤がスタートしました。最初は月水金の半日勤務からスタートしました。それでも最初は疲れてしましまい、翌日寝込むことが多かったです。段々体力がついてくると、次は月水金の1日勤務をして、次は月火木金の週4日勤務という具合に勤務日数を増やしていきました。これも会社のうつ病に対する理解があり、協力していただいたからこそできたリハビリ出勤です。本当にI株式会社に転職してよかったと思っています。
 約3ヶ月のリハビリ出勤を経て、令和2年9月に復職を果たしました。もしかしたらまだ回復期かもしれませんが、自分では寛解していると思っています。なぜなら、約6年前からずっと悩まされていたあの朝の怠さと食欲のなさがなくなったのです。朝もすっきり起きることができ、母から顔つきがよくなったと言っています。

13. 今後について

 今後はうつ病を再燃させないために次記を決めました。

① 常に6割の力で仕事をし、頑張らない
② 規則正しい生活をする
③ 先生の指示通り服薬を続ける
④ 定期的に軽い運動する

 このまま体調が安定して、仕事を続けることができたら婚活をスタートしようと思う。そして、温かい家庭を築いていくのが私の夢です。
 うつ病が寛解したのは、先生、会社、家族と多くの人に助けらたからです。本当に感謝しています。
 最後まで読んでいただき、ありがとうございました!






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