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しにたいと書きたいのはざまで。



<この記事に辿り着いた読者の方へ>
*センシティブな内容を含みます。引っ張られやすい方は読まないことを推奨します。
約5000字を超える長文のエッセイです。
*とても長いので無理をせずに、ゆっくりと読んでいただけると嬉しいです。
本音や気づきや考えを書いているだけの記事です
『死にたい気持ちをどうにかしたい』という解決法などを書いた記事ではないので、万が一そのような内容を期待している場合は、ブラウザバックを推奨します。

水彩ももより


前書きが長くて申し訳ないのですが、
これらを踏まえた上で読んでいただけると
幸いです🙇‍♀️

何卒よろしくお願いします。














死なないことに、なんの意味があるかは知らないけれど


処方された薬を飲むことでやっと、
死なないでいられている。


ほとんど毎日、頓服を飲んで
なんとか心身を保つ。


それと、ほんとうにたくさんの方々、
専門家の方々だけでなく、家族も、
友達にも、感謝しきれないほど、
助けられている。


私はとてもとても、周りの人に恵まれている。



それなのに。
私の中から、死にたいという
気持ちが消えない。





うまく話せない、どんな表情をしていればいいかも、わからない


私はもとから、自分の気持ちをどれくらい相手に話すか、ということがとても苦手だ。

今でこそ私を友達や後輩、仲間として大切に思ってくれている方々がいるが、これまでの私はほんとうに、ひととの距離感を掴むのが苦手、と言うか今も苦手で、そのせいで何人もの友人や恋人を失ってきた。



すこし前までの私は、仲が良く、とても大事に思っているひとたちに依存してしまうことが悩みだった。

家族や他の人には言えない、
しにたい
助けて
くるしい
を、ずっと言い続けてしまうような、どうしようもない人間だった。
(まあ私は結局noteでそういう気持ちを頻繁に投稿してしまうので、吐き出すところが変わっただけだけど。)




でも去年から、自分の気持ちに自分で対処する、ざっくり言うなら『ひとりの状況で辛い感情に耐える』ことを学んだ。



うさぎやシナモンをもふもふしたり、日記を書いたり、好きなものを食べたり、本を読むのに集中したり。


私は少しずつ、つらいと思う状況に慣れてきたし、ひとりでできることはひとりでやる、そう思うことが増えた。



それに、他者と関わるから自分の苦しさが増すような気がしていた。



実際、私は人と適切な距離を掴めなかったり、嫌われるのが怖かったり、
自分に自信がなかったりしたから、
あるときから自分からひとと関わることを、できるだけしなくなった。


あれほどLINEを自分から色んな人にしていたのもやめたし、


Twitterにつらい気持ちを書くこともできるだけやめた。


SNSも更新頻度を減らし、スマホからアンインストールした。


LINEとnoteだけが唯一残ったが、
私はもっぱら自分のメモ用のために
それらを使うようになった。

誰かを遊びに誘うのも、
ほとんどしなくなった。



最初の2週間は、とても楽だった。



当時は春休みの終盤だったし、
私は自分の苦しい気持ちを5人の、それぞれ立場やコミュニティの違う専門職の方々に話していた。


私はこれからもずっと、私の辛い気持ちを専門の方々に話していくしかない。
というか、それができるだけ、自分はとても恵まれているのだと、自分を説得した。




うまく感情を表現できない自分


でも、そんなに簡単にことは進まなかった。


5月に入ると、私の中の希死念慮は、
ぶくぶく増えていった。


最初は「あ〜やってきましたね、希死念慮! まあ課題でもするか」
とかでうまくやり過ごせていた死にたさは、あっという間に私の日常をかっさらっていた。


私は必死だった。



確かに、他者と関わりを持つことに私は慎重になったけれど、授業が始まり友達や先輩の前では『元気で明るい大学生の私』を意識して振る舞ってしまうあまり、家に帰ると毎晩死にたくなった。



大学が嫌いだとか、周りの人が嫌いだとか、そういうことで死にたくなっているのではない。



むしろ私は私の所属する学部も学科も好きだし、友達や先輩のことを大事に思っている。


私は自分の死にたさを、苦しさを、
しんどさを隠して、大学にいなければと思う自意識の強さに苦しんでいたから、
毎日死にたくなった。


こんなに苦しいのに、
私は明日もその気持ちを無視して、
それ以外の私で過ごさなければならないのか、そう思うと、どうしようもなくつらかった。


一番つらかったのは、私の書きたいことと、私の大学内でのパブリックイメージである『元気で明るい大学生』の印象は、180度全く違っているため、
ほんとうに書きたいことを書くことに、躊躇いが生じたことだ。


私はこれまでの自分を、今の自分を助けるために書きたくてこの学科に来たはずなのに、結局世間体や周りとの関係性が崩れることを恐れて、ほんとうに書きたいことを書けないなんて、そんなのもう、ここに来た意味があるのだろうか?

そう思うことが増えていった。


一方で、専門家の方々と話していくことで、自分の苦しさを消化するのにも、限界が近づいていった。


もちろん、私は確かに自分の抱えている課題とその解決法を毎週のように話し、
アドバイスをいただくことで、やっていけていた部分もある。


でも、私は自分の感情が置き去りになっていることに気づけなかった。


なぜなら、私は必死に自分の言葉で説明し、訴えていたからだ。


けれど、私はひとりのときに泣いても、
泣くくらいつらいのに、
誰の前でも泣けなかった。


息が苦しくなるくらいなのに、
誰の前でも息苦しそうにしなかった。


助けてほしいのに、
追い詰められているように話さなかった。

私はいついかなるときも、理路整然と、
時系列に沿って淡々と話すことしかできなかった。

そして、これからどう自分が対処していけばいいのかがわからない、ということしか話せなかった。

もちろん私はその説明の中で
「くるしい」「しんどい」
「つらい」「しにたい」という言葉は使った。


でも、言葉以外の表現、例えば泣いたり、つらそうな顔で話したり、そういったことがほとんどできなかった。


私は言葉以外で自分のネガティブな気持ちをうまく表現する術が分からない。


極端に言えば、ものすごく淡々と言葉で客観的に説明するか、爆発したかのように泣くか、のような二択しかなくて、



そのちょうど真ん中あたりのコミュニケーションを、あまり知らないままで育った。



これは別に誰が悪いとか、そのような問題ではない。





ただ私の特性上、
うまく感情を表現できないところがあって、
それに加えて子どもだった時期に、
言葉以外での感情表現の練習を
ほとんどしなかったから生まれた問題である、というだけだ。

そして、一生懸命自分のことを言葉で説明すれば、
この自分のどうしようもなくつらい気持ちは伝わるだろう、
こんなに必死で説明しているんだから伝わるはずだ、
そういう思い込みがあった。


しかし、あるひとりの専門職のスタッフさんのひとことで、
私のしんどさが思っていたより伝わっていなかったこと、
そして自分が言葉以外のコミュニケーションを非常に苦手としていることを自覚した。


逆に言えば、そのひとことがなければ、
上で書いたような『言葉でしか、自分のネガティブな気持ちを表現する術を知らない』という、自分の非言語的なコミュニケーションの欠落と、そのコミュニケーションの重要性に全く気がついていなかったのだ。


その瞬間、


「そりゃ私のしんどい気持ちが伝わらないわけだ!」


と今まで抱えていたどうにも煮え切らない、
むずむずとした違和感が一気にクリアになった。


言われてみれば、いつも、泣きたい気持ちになるけど人前だと涙がひっこんでしまったり、


相談しているスタッフさんの表情がつらそうで、『そんな私つらい話してるの?!?!』と思ったり、

相談した時に相手から「それはつらかったですね」「大変でしたね」「しんどいのによく頑張っていますね」と言われても、


『え、う〜ん、私ってつらかったのかあ? 大変だったのかなあ?』と考えてしまうし、


『これくらいで弱音吐いていいのかなあ? みんなが耐えてる平均のつらさ(そんなものは存在しないと知っていても)がわからないから、私が「つらい」と言ってもいいのかわからない、』


『みんな結局それぞれ大変なんだから、特別私だけが大変ってことはないだろうし…』とか考えてしまって、


「そうですかね〜?」と答えることしかできなかった。

でも、ある一人のスタッフさんのそのひとことは、確かに私を変えた。



感情を伝えるって、むずかしい


それから私はずっと、どうやったら言葉以外でも自分の気持ちをちょうどよく相手に伝えられるようになるのか、を考えるようになった。

もちろん、考えるだけでは身につかないのは、これまでの経験上理解しているので、
まずは専門家の方々とのコミュニケーションの中で
『どう思ったか、どう感じたか』
を話す練習をしたり、

もう少ししんどいということを隠さずにただ過ごすことを練習をしたり、
あとは周りの人の振る舞いから学んだり、
そういう練習を重ねたいと思う。

そして、相手と自分の気持ちをキャッチボールのように、ぽーん、ぽーんと伝え合うことが、できるようになれたらいいなあと思う。


多分、すぐにうまくはいかないだろう。


だけど、諦めないで、少しずつ練習していけば練習しないよりはうまくなれるかもしれない、とは思う。


でも、5人のうち2人の専門職のスタッフさんは「自分の気持ちや考えをこれまで通り、書き続けてください」と伝えてくださった。


これまでずっと、
『できないことをできるように
しなければならない』

だから、自分の弱点を克服することが私にとって”一番しなければならない努力”だったけれど、

そのスタッフさんたちの言葉を聞いて、
必ずしも『できないことをできるようにする』だけが努力の形ではないのかもと思った。

もちろんこれからも『できないことをできるようにする』努力はしていくけれど、
『できないことを別の方法でできるようにする』とか、
『できないことを他のひとに助けてもらう』ことも、悪いことではないのだと知った。



「死にたい、だけど書きたい」
その想いが私をつなぎとめている


今これを書いているとき(2024/06/02 19時)は、だいぶ落ち着いている。

でも、やっぱり1日のどこかで
希死念慮に襲われ、なんとか耐える、
その繰り返しを生きている。

とても死にたい。

もっといろんなことを、いろんな文芸表現で書きたい。

もうくるしくて耐えられない、死にたい。

大好きな家族のために、死んじゃいけない。

ぜんぶぜんぶやめて、どこか遠くに行って、自分じゃない誰かになりたい。

ほかの誰でもない、私だから書くことのできる作品を書きたい。


私は日々、
『死にたい』と『書きたい』の間で
苦しみながら、でもなんとか生きている。


もうぐちゃぐちゃになって、自分の気持ちがわからなくなることの方が多くなった。

なんで私は死にたいのか、生きたいのか。

助けてほしいのか、助けてほしくないのか。

くるしいのか、くるしくないのか。


もう全部全部、わからなくなってしまうときが何度も来たし、多分これからも来るだろう。




だけど、確かに言えることがある。





私は書きたい。


もっともっと書いて、



かつての私を
今の私を
未来の私を
絶望してる、もう死ぬしかないと思ってきた、思ってる私を
その私を私の言葉で、助けたいんだ。

だから、死なないでいたい。

私が書けなくなる、その日まで。

ずっとずっと書いて、
誰かと笑って、泣いて
そんなふうに、思いっきり、
生きていたいんだ。


ここまで読んでくださったあなたへ


5000字を超える長すぎる文を
最後まで読んでくださったあなたに、
こころからの感謝を述べます。

ありがとうございます泣

この文章はかれこれ9年近くメンタルに不調を抱えた、どこにでもいるような、
ひとりの大学生が書いています。


もしかすると最後まで読んでくださった方々の中には、ハッシュタグで検索をしたり、おすすめ記事で出会ったりしてこの記事に辿り着いた方々、


そして私と同じようなメンタルの不調に
悩み、苦しみ、涙を流している方も
いるかもしれません。


そんな方々にとって
私のこの長い長い本音は、
なんの助けにもならなかったかもしれません。

私はこれを読んでくださった『あなた』の
顔も、境遇も、くるしみも、知らないと思います。


それでも。


私はこころの底から、
これを読んでくださった『あなた』が
幸せに生きられることを願っています。

そして、
つらくてしょうがなくて、
泣いてばかりの『あなた』の
明るい瞬間を、明日を、未来を
本気で願っています。


最後に。

こんなに長く、拙い文章を読んでくださり
本当にありがとうございます。

いつも私の記事に目を通してくださっているフォロワーの皆さんにも、
はじめましてのあなたにも
ありがとう! を伝えます。


ほんとにありがとう! またね!






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