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脳内開示独白 (脳独)2

 この文章は、ある一人の人の脳内をフレッシュなままにお届けしようとする試みです。以下の文章の中には、たくさんの難しい言葉が並んでいる可能性があります。そして、読中読後に、不快な思いを抱く人も生まれるかもしれません。その点に関しては、ここでお詫びいたします。
 一人でも多くの人が、楽しまれることを願っています。
※注意 この文章は特定の団体、個人を攻撃する意図はありません。また、文章内には不正確な文言も含まれています。あくまでエンタメとしてお付き合いください。


 俺はよくお菓子を食べる。コンビニに売っている菓子パンを食べる。理由は単純だ。おいしいから。けれどそれは体にはよくないというらしい。親にも言われていた。そうだ。俺は幼少期の頃から健康にいい食事をとっていた。おかげで肥満体質も目立った生活習慣病もなく生きている。しかしだ、今こうして一人暮らしをしていると、そのリミッターが解除されているような気がする。俺はなんだか、自由になったようで、地獄への道を進んでいるだけなのかもしれない。昔から、いい人になることが夢であった。生きているからには、何かを成し遂げたい、ビッグな男になりたいと、常に願って生きてきた。だから勉強も頑張った。いい高校、いい大学に入っていると思う。けれど毎度毎度自分の環境を変えて感じるのは、焦燥感だった。さらに良い環境へ、自分を置かなくてはいけない。そういった焦燥感が俺を襲い続けていたのだ。今も、残っているのかもしれない。良い人になるためには、良い生活を送らなくてはならない。しかし、お菓子ばっかり食べている今の生活は、良くない。自分の中に矛盾が生じ、今は、葛藤している。なぜだろう。
 人間はどうせ死ぬから、今は何やってもいいと感じている。がしかし、本当にそれでよいのだろうか。なぜ俺たちは人生の中で集団を作成しているのか、それも古代から。人はグループに属していないと生きていけない。この行動は本能的なものであろう。だから俺たちは必死になって仲間を作る。仲間を作るという行為は同時に敵を作ることを意味する。敵を知覚できるからこそ、仲間を助け合うことができる。先日、本で読んだことなのだが、『差別とは、殺せる人種を造る行為である』らしい。人は殺してはいけないというルールがあるが、グループを作りそれを差別することでそのルールを抜けることができる。大体の争いは、ここに帰結するであろう。
 言いたいのは、人間皆様、主語が大きい場面があるということだ。かくいう私が一番そうであるのだが、よくあることだ。人はみな、男は、日本人は、外国人は、賢い人は、見にくい人は、こんなつまらないものを買う人は、時間を無駄にする人は…。枚挙にいとまがないが、こういうことだ。みんな主語が大きくなってしまう。そうなるとそこには必然的に争いが生まれる。人は個人を感じる際に、グループの一員であると、グループそれ自体の評価も自分の評価と同一であると考える傾向にある。グループ内に頑張ってもない人がいるのにグループが褒められたり、何もしていないのに日本人を論じられたりすると、少し感情が動くだろう。これは、立派に人間が所属グループ評価を自己評価と同一視している現象であると言える。だから、だからこそ人は争いが絶えないのだ。争ってばかりいるのは、主語の大きい意見に対して、怒りの感情を発してしまうからだ。私は、僕は、俺は、…こういう風に主語を小さくすれば、争いは少なくなる。その分責任が増すのだが、責任を受け入れる。それが大人だという。責任を受け入れられるほどあなたは大人であろうか。どこかに逃げ道を作っておいているのだろうか。別にそれでもかまわないのだが。しかし、世の中の争いを見ると、主語を小さくするだけでそれなりに平和な世の中が訪れるだろうと感じる。どうだろうか。

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