須賀林太郎

楽しい話は出来ません

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最近の記事

戒厳信仰

 ずっと前から希死念慮があった。もう十年以上の付き合いになる。  「死にたい」気持ちはいつしか「死なねばならない」の気持ちへと変化し、もうこうなると希死念慮というよりも希死強迫観念とでも言った方が良いのかもしれなかった。  希死念慮が強迫観念になったころ、死神が見えるようになった。  死神は自分自身の姿をしていて、黒い目を皿の様にしてこちらを見ている事が多かった。何もしては来ない。背後に現れて後ろからついてきたり、街角に急にポツンと立ってこちらを凝視していたり、あるいは突然目

    • 戒厳信仰

       旅というのは往々楽しいものである。  初めての場所で目新しい土産物にチカチカと眼底を刺激され、押し合いへし合いの観光客の荒波を自由にサーフィンせねばならない。変わった地場産の食べ物は鼻孔を不躾にくすぐり、味覚は次なる高みを不相応に目指し、脳みその中の知識欲は観光の目玉となる場所へ急げと好奇心を責め立ててくる。  身ぐるみはがされたゲームの初期キャラみたいに知らない街で呆然と立ち尽くす。右も左もわからない。コンビニすらも不親切。  楽しいのだ、そういうのが。  さて今回は鎌

      • 戒厳信仰

        「カメラの楽しみ方と後悔、自責」 マイナスなワードが目立ちますが前向きな記事です。

        • 戒厳信仰

          その昔したためた作文を手直ししました。 PDFファイルに初挑戦です。

          一眼レフカメラについて

           一眼レフカメラというのがある。ミラーレスカメラというのがある。スマホカメラというのがある。  自分は一眼レフカメラにお熱である。  NikonのD7500。  これが自分の愛する機体の名前であるが、長ったらしいのでここではただ「カメラ」とだけ呼ぶ。  カメラは黒くて硬質で中に鏡が内蔵されている。ミラーレスカメラの様な軽やかさもスマホカメラの様なスマートさも持ち合わせてはいないが、ただ頑強で、ややもすると鈍器と同じ質量を持って自分の方にぶら下がっている。 中の鏡に景色を反

          一眼レフカメラについて

          戒厳信仰

          伝統は守られるべきだ。しかし、新しきを受け入れなければ伝統は死ぬ。 非常に難しい課題だ。 伝統とは古き良き日本の山村であったり、神仏に祈ることであったり、日本人に心そのものであったり、多様である。ある者は伝統を受け継ぐ事を良しとし、ある者は伝統とは古臭い悪習であると言う。しかし我々の考えに関わらず、近年の伝統は非常に薄弱なものになって来ていると感じる。 例えば新大久保は既に伝統を失っている。ミニスカートの少女がキャリーケース片手にゴロゴロと狭い歩道を闊歩し、付き従う少年は

          戒厳信仰

          およそ「常識」と呼ばれるものは価値観の押し付けに他ならない。 その価値観がメジャーなのかマイナーなのか、それだけが常識か否かを分断している。しかしマイナーというのは異質、つまり個性的であるという事とも同義であり、没個性のコンクリートに沈められて雁字搦めになるのを嫌う現代人は往々にして「俺、変わってるからさ」といってマイナーを追い求める。マイナーを追い求める人々という一大メジャー。 自分も例に漏れず「自分は別にマイナーを追い求めていないですよ」というメジャーを受け入れるスタン

          戒厳信仰

          そろそろ最も忌むべき季節が来る。というのも、ここ数日雨音と共に確実に夏の匂いを感じられる様になったからだ。 噴き出る汗、さんざめく蝉、排ガスと雨の匂い、クールビズに勤しむサラリーマン。およそ好感を持てる要素が無かった。強いてあげるならば彩りは豊かだと思う。写真を撮る人間にとって(個人の好みはあるものの)彩度が高いというのは嫌われる原因にはならないだろう。 ただ、夏にはそれを補って余りある不快感が纏わりついていた。丁度喪服に染み付いた白檀の匂いがそれに近い。 夏に半袖を着なく

          戒厳信仰

          神は存在すると思いますか?と問われれば、ノータイムで「思いません」と答える。神はこの世に存在しない。存在していいはずがない。自分は無神論者だ。 何故神は存在しないと言い切れるのかといえば、簡単に言うと「神が存在するのなら、この世界はもっと住み良い筈」という表現に行き着く。この場合神というのは仏や道教などの精神的な存在も指す。 しかしここで矛盾が生じる。自分は無神論者だが無宗教ではなかった。今日の日本で宗教をしているというのはどこか胡散臭いし、厨二病が抜けきっていないヤツみた

          戒厳信仰

          男女差別だとか、男女格差という言葉が存在する。これは何も男尊女卑を表す言葉ではなくて、純粋に歴然とある差別と格差を叫ぶ言葉である。なので、その差別と格差には勿論男性も含まれている。だというのに男尊女卑と同意義かの様に扱われている昨今の言葉の不自由さはなんだろう。我々は不自由な言葉で一生懸命主張して、それによってさらに自分の首を絞めるお人好しなサンソンなのだ まず自分の意見を明確にしておくと、男女は絶対に分かり合えない。 仕方がない。だって見えている世界が違う、感じ方が違う、

          戒厳信仰

           早朝4時。健全な人間ならこの時間に起き出して、ランニングの準備にでも取り掛かるのだろうか。だが自分は健全では無い。故にこの時間は床に入るのを考え始める時間であり、しかしテンション自体は深夜のソレだから、ピンピンしているのに生み出すものは全て目を覆いたくなる様なイタさを孕んでいるという、創作には一切向かない時間であった。4月の東京はまだ黒々とした空で外出を拒む。  1時くらいならまだ平時と変わらないテンション。2時も、まぁ。3時以降になると途端に人前に出られなくなる。いや、対

          戒厳信仰

          処分可能な時間の処分というのは、至上命題だ。これを怠ると、死ぬ。 最近やっとこの事に気が付いて出不精に終止符を打った。というのも自分の憂鬱は時間を持て余している事で生まれると悟ったからだ。いわゆる堂々巡り。ベッドの上で横になったまま憂鬱に涙を流し、マットレスに染み込む塩分とその後に待っている細菌の増殖を想像して具合が悪くなって吐くのはどう考えても不健全だった。しかも生産性のカケラも無い。病名が付かなかったのが今となっては大変恨めしいが、やもすると精神障害を偶発しかねない。

          戒厳信仰

          週刊誌の表紙と、AVのパッケージを眺めるのが結構好きだ。 何にもやる気が出ない時、何にもすることが無い時、ごくたまに「AV パッケージ」と検索を掛けている。またコンビニに行って人を待つ時、大体週刊誌の表紙を見ている。双方に共通するのは目を引く原色と、踊り狂う文字だろうか。どちらも男性向けに作られているので、表紙を見れば世の男性の頭の中が透けて見えるという訳である。 週刊誌を見る限り、男性諸君の脳内というのは政治3割、エロ3割、陰謀論2割、薄毛対策2割である。これが女性向け

          戒厳信仰

          ここ数日、何度かnoteを更新しようとページを開いては考えが纏まらずに放置を繰り返した。人嫌いの自分にとって東京という場所は情報を無理やり飲み込まされる場所なのだろう。言うなれば、幼稚園小学校と経験してきた給食の時間。幸い、嫌いな食べ物は無いので好き嫌いで物を残す事は無かったが、どうしたって胃に納めるには多すぎる量を言い渡されることがある。「先生、残してもいいですか」「じゃあ、昼休みが終わるまでに食べ終わらなければ、給食室に返しに行こうか」残業決定である。しかもたかが昼食で。

          戒厳信仰

          漁村というのは、省スペースにいかに人を詰め込むかという理論が働いているからか、なんとなく独特の雰囲気がある。 唐泊漁港とは、その昔遣唐使船が停泊した事からその名が付いたらしい。からとまり、という音に「唐留」を当てていた自分は、しかし泊まるという字に自発性を感じ取ってそのマイナスなイメージを払拭した。いつか見た奄美大島の港によく似た風景だ。停泊する船がレフ板みたいに風景を白ませる。漁港内に忘れ去られた太古の事務用椅子は、そのキャスターを塩水に浸して時を止めている様にも見えた。

          戒厳信仰

          202号線の混雑は人生に似ている。明るい場所を目指して長い長い列を作るがその行列は遅々として進まない。偶に列を抜ける車は、目的地に着いたが故の脱却か、Uターンを決め込む為の脱落か。警察署の前でいつも以上に良い子の顔で素通りするのも、駐車場の出入り口で車間を詰めて意地の悪い所を見せるのも、列に割り込んでサンキューハザードを付けるのも、全部人生に似ている。渋滞にハマっている間に夕暮れになるのもまた人生だ。 糸島市前原は自分にとって余り良い思い出のある場所ではない。前原の雰囲気や