戒厳信仰
処分可能な時間の処分というのは、至上命題だ。これを怠ると、死ぬ。
最近やっとこの事に気が付いて出不精に終止符を打った。というのも自分の憂鬱は時間を持て余している事で生まれると悟ったからだ。いわゆる堂々巡り。ベッドの上で横になったまま憂鬱に涙を流し、マットレスに染み込む塩分とその後に待っている細菌の増殖を想像して具合が悪くなって吐くのはどう考えても不健全だった。しかも生産性のカケラも無い。病名が付かなかったのが今となっては大変恨めしいが、やもすると精神障害を偶発しかねない。
故に、カメラを片手にどこかへ繰り出す事は文字通り延命措置であり、処分可能な時間の処分に急いて他の事を考えるのをやめてしまうのも、延命措置だ。街を当ても無く歩くのは、人の視線の冷たさにさえ慣れてしまえばとても良い時間である。1/125は免罪の証。
これは持論だが、鬱だとか統合失調だとかは発症すると一生治らない。医学的には健康体に戻っても、記憶のリセットが行われる訳ではないので、その時の事を思い出して定期的になんらかの感情を抱くであろうから。その時の感情を薬と余生で希釈して上手い具合に生存可能な値まで数値を下げているだけで、実際感情がなくなる訳ではない。事実、自分は10年近くも希死念慮に囚われているせいでそれ以前の、いわゆる健全な日常は忘れてしまったし、「死にたくない」と言う世の中の人間の正気を疑っている。だいぶ薄めてしまったとはいえ、それでも夜にはマットレスに染みた塩分と細菌の増殖を想像する。
身内に狂人が出ると自分にもそのケがあるのではないだろうかと悩むのは文化人あるあるらしいが、自分にも少なからずそういう思考があるのは大変に嬉しい事である。狂人というより、人格破綻者を匿っていた前科と、それを野に放ってしまった前科がある為、絶賛執行猶予中だ。でも自分にはどうにも出来なかった。人を殺すわけにもいかない。許してほしい。
Nikonの文字を精神安定剤にして生きている以上、暫くは週一の撮り歩きに生かされる事になりそうだ。
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