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戒厳信仰

男女差別だとか、男女格差という言葉が存在する。これは何も男尊女卑を表す言葉ではなくて、純粋に歴然とある差別と格差を叫ぶ言葉である。なので、その差別と格差には勿論男性も含まれている。だというのに男尊女卑と同意義かの様に扱われている昨今の言葉の不自由さはなんだろう。我々は不自由な言葉で一生懸命主張して、それによってさらに自分の首を絞めるお人好しなサンソンなのだ

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まず自分の意見を明確にしておくと、男女は絶対に分かり合えない。
仕方がない。だって見えている世界が違う、感じ方が違う、物理的な視野でさえ、多分違う。SNS上でフェミがミソジニーがと騒ぐ前にまずそこに気が付く事が大切であろう。同性同士でも分かり合えないこの世の中で、どうして性別の違う生き物の気持ちが理解出来ようか。しかし見方を変えるならSNSの性別対抗大討論会(炎上会場)も双方の意見を理解出来るのだ。
直近だと月曜日のたわわ、吉野家役員の早稲田での抗議、云々かんぬん。

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まず月曜日のたわわの話をしよう。
4月4日の某新聞に「月曜日のたわわ」という漫画のキャラクターが「今週も、素敵な一週間でありますように」というコメントと共に載っている。たわわ、というのはバストの豊満さを表しており、漫画の内容は(1話を読んだ限りでは)電車で鉢合わせる旨の大きい女子高生に会社員の主人公が元気を貰う、癒されるという物。
この件に関して自分の所感は「炎上するほどでもないかな」だ。
確かに漫画では女子高生のキャラクターのバストが強調され、定期入れが胸に乗る、床に落ちた定期入れを拾う為に女子高生が胸を主人公♂に密着させながら屈伸運動をするなど、言ってしまえば「pixivレベルでよく見る発禁してないエロ漫画」と言った感じだ。中立的な気持ちで読むと、気持ちが悪くて嫌になる。新聞広告になった最も「新社会人を元気づける為に」らしい。新社会人には勿論女性も含まれているだろう。エロ漫画まがいの広告で、ナニが元気になるんだとすら思う(実際作中にはそういう婉曲表現もある)
しかし新聞に載っていたのは「たわわ」な部分が腕で隠れた構図だ。キャラクターが立っているだけの一枚絵で、セリフも無ければ過度な擬音表現などもない。漫画の内容は若干受け入れられる物ではないが、新聞広告として存在が許されるだけの配慮のある広告だと思う。だからあの炎上は、知らない人が見れば無害なのに、なまじ知識があるだけに不快感を押し売りしてしまった女性側にも問題があると思う。

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次は吉野家役員の「生娘をシャブ漬け」講義。
これは早稲田大学で行われたマーケティング講座で、講師として呼ばれた吉野家社員が吉野家の若い女性向けマーケティング施作として「生娘をシャブ漬け戦略」と称して「田舎から出てきた右も左も分からない若い女の子を無垢・生娘な内に牛丼中毒にする。男に高い飯を奢ってもらう様になれば、絶対に食べない」と言い放ったという物。
もうこの数文だけで危険な香りがプンプンするが、これに関しての所感は「そりゃ炎上するでしょ」
男にも女にも吉野家にも失礼な話をよくもまぁこの短い文章に纏めたなと言った印象。「田舎から出てきた」「生娘」「シャブ漬け」「男に高い飯を奢ってもらう」「絶対食べない」。アウトワードだけを抜き出してもなんとなく話が分かるほど、全文に渡ってアウトだ。
そもそも生娘というのは、純真な娘という意味もあるが、どちらかというと処女という意味合いが強い。都心地方問わずチェーン展開する吉野家が「田舎から出てきた人間は都会の美味い食い物を知らない」といった地方軽視の姿勢を取っているのも冷や汗が出るし、「シャブ漬け」という表現も過激すぎるが故に商業成人誌では出来る限り避けられている。安かろう悪かろうを提供しますと言わんばかりの後半の文章も目を疑う。これは若い女性に向けての文言だが、男性向けに直すのなら「田舎から出てきた右も左も分からない若い男の子を女を知る前・童貞の内に牛丼中毒にする。女にいい顔をしようとしてある程度稼ぐ様になると、絶対に食べない」だろうか。震える。

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男女差別、男女格差というが、実際差別されているのはある程度一般的なレベルの我々全体なのだ。男女とかいう区別ではない。勝ち組か、そうでないか。
一握りの人間しか昇進出来ない社会の中でいつまでも「女は昇進出来ない。男尊女卑だ。」「女よりも弱者男性の方が差別されている。女は結婚も夜鷹も出来るのに。」という論戦を繰り返すのは、進展も後退もしない、愚かな事だ。

例えば本当に差別や格差の無い世界のレベルを100だとする。この場合個人差はなく、男女という区別しかない。これを現実に当てはめるとするならば、過剰に満足している150の人間と常に不足している50の人間がいて、平均的に100を保てているのがこの世界なのだ。
雇用機会均等法や法改正によってある程度是正された今日だが、ひと昔前までは本当の意味で男尊女卑の世界だった。この時の男性の世界レベルを100だとするならば女性の世界レベルは0。仕事をする事も酒を飲む事も、夫の前を歩く事も許されない。これは立派に格差だ。平均値は50だが、女性の権利が重視されなかった時代では0は換算しない。故に、男性から見れば満ち足りた世界だったに違いない。
そして今日、あらゆる格差は是正され、あらゆる差別は廃止された。かに見えた。いや、実際女性の世界レベルは上がったのだろう。50くらいに。しかしそれは同時に「女を後ろに侍らせ、女の茶を注がせ、女を道具として扱えた」男性諸君の権利が奪われたことになる。相対的に男性の世界レベルは下がる。100が50になった。男女共に世界レベルが50の世界。擬似的に差別や格差が無い世界。

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しかしそんな中で権利を失わなかった人種がいる。むしろ圧倒的地位と圧倒的財力を得て旧時代よりも世界レベルを上げることに成功した、150の世界に生きている人々。多くの人間が半分しか満足できない世界で、多すぎる満足を得ることのできる害悪の元。人生勝ち組、と言うやつだ。
悲しいかなこの世は金で買えない物が無い。勝ち組の皆さんが勝ち組と呼ばれる所以は金にあるので、つまり彼らに買えない物はなく、過不足ない充実が約束されている。「彼ら」と限定するのには訳がある。つまり、人生勝ち組の皆さんは90%以上が男で占められたホモソーシャル社会なのだ。そりゃそうだ。だってひと昔前まで女には権利がなかったのだから、余程才と運に恵まれでもしない限り「女社長」なんてのは存在しない。親の収入が子の最終学歴になる、親の力が子の人生に関わる、と言われるように「男性中心主義社会」で気持ちよく暮らしてきた人間が今日でも気持ちよく生きる為には、男性中心の社会でいてもらった方が居心地がいいに決まっている。男性が政治や社会、流通の上層を牛耳っている限りは「男性中心主義社会」達成の為に旧時代的発想で女を要職に近付けないのは当然だ。
そうでなくとも女性は妊娠出産の危険がある。下手に男女平等を掲げたせいでセクハラにも厳しくなった。「髪型変えた?」がセクハラになる事例もあるらしい。そんな旧日本軍の手榴弾みたいな存在、誰が近くに置いて、誰が権力を握らせると言うのか。女性は手榴弾。威力は抜群だが下手に暴発するとこっちの四肢が飛ぶ。だったら、小銃片手に突進した方が良いと言うのはどう考えても明白だ。

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「たわわ」は0だった女性達が再び0に戻らない為、むしろ100を目指して邁進した結果の炎上なのだろう。彼女達は男性の世界レベルが下がったことなど知る由もないので、可視化されていない世界レベルが純粋に100のままだと勘違いしていて自分達も男性と同じように過不足ない差別と格差から断絶された世界を見る事ができると夢を見ている。しかし実際平均的な世界レベルは100でも、我々小市民に許された上限は50のままなのでこれ以上差別と格差のない世界を見ることは出来ない。
「吉野家」の話は勝ち組がいかに害悪で、悪影響を振り撒き、今の立場に胡座をかいているのかが分かりやすく見えただけだろう。つまり、吉野家では日常的に「ウケるネタ」として「生娘シャブ漬け論」の様な語り口がまかり通っており、彼を昇進させた会社全体に彼の様な人間を容認する雰囲気が蔓延っていると言うことだ。吉野家の様な大きな企業でその様な風潮があると言う事は、日本経済の多くの企業で見られる一般的な事象だと見て差し支えないだろう。ゴキブリと一緒。前時代の「男性中心主義社会」でぬくぬくと気持ち良く暮らしている勝ち組の皆さんにとっては未だに女性は「話のタネ」であり道具でしかないのだ。彼らは未だ100と0の人間しかいない世界で生きているから自分達もその他大勢もみんなが100だと疑わない。支配階級にいながら人を知ることを怠った彼らは、無意識の行為であっても悪人たり得る。無知は悪ではないが、責任ある立場にいながら考えることを放棄して知ろうとしない事は、絶対的に悪だと断言する。自分の持つありとあらゆる語彙を用いて、絶対的にこの様な風潮を許さない。社会を腐敗させているのは他でもない、社会を動かし支配している彼らなのだ。許し難い。

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とはいえこの現状を改善するのは困難を極める。どうすればこの悪い流れを断ち切れるのか、分かっていても実行するだけの力がない。だって世界は勝ち組を中心に回っているから。
例えば政治家になったとしよう。持論を展開し、市民から多くの賛同を得たとする。しかし、前述の様にこの世は結局金なので、資金がなければ働けない。では資金を出すのは誰だ?資金を持っているのは誰だ?そう、支配階級である。男性中心主義社会をこよなく愛し、胡座をかき、自分の気持ち良さのために多くの人間の上に座る事の出来る彼らだ。「腐った流れを打開したい。力を貸してほしい。」と訴えた所で、彼らはハイそうですかと言って出資する事はないだろう。政治家だって2世と現状に満足している勝ち組が幅を利かせる世界だ。誰が、満足している現状を変えようと目論むいつかの長州の様な反乱分子に力を貸すと言うのだろう。いつかの薩長土肥で組まれた内閣が、そっくりそのまま現代の政治に反映されている。この現状に、腑が煮える程の怒りを覚える。

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とはいえこれは、やもすると僻みだ。
何かに関して強者が弱者を迫害するのは歴史から見ても歴然であり、自分でも気が付かない内に強者として弱者を痛ぶっている可能性だってゼロではない。そしてその弱者が、いずれはこちらを刺し殺す為の凶器を研いでいる可能性もまた、ゼロではないのだ。
何かに抱く怒りだとか殺意は、自分にとって生きる原動力にもなっている。プラスの感情よりマイナスの感情の方が長く燃え続けるので燃費が良い。
感情論に外れていきそうなので総括するが、憎むべきや批判すべきは異性ではなく旧来の男性中心主義社会にいつまでも縋っている支配階級なのだ。だが、彼らがこの健康で健全で極めて愛すべき日本を動かしているのもまた事実だ。事実は変えられない。
だからこそ、我々に出来る事は、理解し合えない人を批判する事ではなく、気持ち良さにドップリの勝ち組を僻むことでもなく、80余年の人生でいかにこの国が変わるのかを地底からジットリ眺める事ではないだろうか。諦観以外の方法はない。騙し騙し現状に満足し、諦観を決め込み、最後までこの世界が変わらない時は、鼻で笑って死ぬのが良いのだ。

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