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戒厳信仰

 ずっと前から希死念慮があった。もう十年以上の付き合いになる。
 「死にたい」気持ちはいつしか「死なねばならない」の気持ちへと変化し、もうこうなると希死念慮というよりも希死強迫観念とでも言った方が良いのかもしれなかった。
 希死念慮が強迫観念になったころ、死神が見えるようになった。
 死神は自分自身の姿をしていて、黒い目を皿の様にしてこちらを見ている事が多かった。何もしては来ない。背後に現れて後ろからついてきたり、街角に急にポツンと立ってこちらを凝視していたり、あるいは突然目の前に現れて黒い影になってこちらに向かって突進(幻影なので実際に物理的な実害はない)をしてくることがままある程度である。
 何もスピリチュアルの話をしているわけではない。勿論死神というのは比喩で、ただの幻覚でしかない。ただ、漠然と「死なねばならない」を誘発してくる自身の幻影は薄気味悪く、時には実際に精神的な体調に作用してくるのだった。

 2年と半年ほど前、「死にたかった時の話」という小話を書いた。
 丁度東京に出てくる直前の記事で、福岡との別れを惜しみつつ筑前前原という町に詰まった「つらかった」の一つ一つを拾い上げていく内容だ。そこで自分は引っ越しが多い人生だったことに触れ、『4、5年したら飽きてまた引っ越すだろう。』と語っている。そうして今度、9月の終わりに引っ越すことになった。現在住んでいるのは千石という住宅街で、丁度JR山手線巣鴨駅の隣の駅になる。4、5年と記事中では語っていたわけだが、今までの引っ越し遍歴に違わず2年と少しでこの町に飽きて他の町に引っ越したくなってしまったという顛末であった。であるからして、この記事の意図としては引っ越しを機に「死」について再考してみようという試みである。

 死神の話に戻る。
 死神はただこちらを見ているが、時折実体を持つかのような圧倒的かつ現実に則した質量を持って「死になさい」と耳元で語りかけてくる。「死ぬなら今ですよ」の時もある。なんにせよ、自分に死を勧誘してくる。あれが死神でなくて何だろうかと思う。
 死神は常に自分に矜持を求め続け、格好良さを強要し、進化を強い続ける。「そうでないなら死になさい」と言う。ほら今だって、「2年前の記事の方がいいものを書いていたじゃない。退化しているわね。死になさい」。

 殺してくれと思う機会も増えた。
 誰にも責任の及ばない自死を望んでいたはずだが、誰かに責任転嫁できる死に方を望むようになった。何か突拍子もない天災でも起きて、骨の髄まで焼き尽くしてくれないかなと思う。と同時に遺骸は綺麗な方が嬉しいなとかも考えてしまうわけだけれど。
 そう、昨今の自分は全てが矛盾していた。
 死神が見え、死に勧誘され、精神障害を負いながらも、清く正しく美しく矜持を持って生きようと藻掻いている。生き汚いともとれるような行為、つまりはドアノブで首を吊る自殺未遂の途中でその苦しさに涎を垂らしながら呻き暴れるなんて事もした。もう自分でも訳が分からなかった。

 前述の様に、今度引越しをする。
 引っ越し先の近くには警察が常駐している施設があった。自分が死んだ暁には、腐臭がすると通報が入ってその施設の警官が無残な自分の骸を発見することになるのかもしれなかった。
 色々あったなの一つ一つは未だ笑い飛ばせない。
 寧ろ自分を構成する要素の中枢としてどっしりと構えており、死神として質量を持って接近を試みてきたりする。痛々しい昔話も増えて、それを煙たがられる事も起こっている。一言で言えば過去に常に捕らわれ続けている。変わらない過去を抱きしめるように慈しむ様に、もしくは暴力性を持って蹂躙せしめようとする様に、捕らわれては話をして籠の鳥であることをアピールすることでしか過去の自分を救う方法を見出せなかった。これは許しを乞うているのかもしれない。2時間しか眠れない毎夜を恐れて昔話に興じることを許してほしいのかもしれない。
 もう何もわからないし、わかりたくないし、わかろうとするのにも疲れ切っている。

 話を戻そう。「死」の再考だ。
 自分は死を救済だなんてしゃらくさい言葉で誤魔化すつもりはあまりない。死は死でしかなく、死ねばそこで終わり。天国も地獄も極楽も黄泉もありはしない。ゲームオーバー。深い夜の様な黒い帳が待っているのだろう。死は恐れるものではなく、共存関係にある友人だとすら思う。
 では何故死神を恐れて精神に不調をきたすのか。
 簡単、死神がそれでも「格好よく生きなさい」と小突いてくるからだ。
 死神は死に勧誘する文字通りの使者であると同時に、人間に生を謳歌させんとする超越者でもあったのだ。死神は神性を持って「死になさい」と「生きなさい」を交互に繰り返す。生きようとすることに歯止めをかけ、死のうとすることに待ったをかける。自分はその神の気まぐれの間でクラクラとしているだけらしかった。
 これが今晩の、2年半越しの「死」に対する再考だ。
 纏まりのない、わかろうとすることに疲れ切った人間の最後の抵抗である。
 きっとまた引っ越す。その時に再考する瞬間がやってくるだろう。
 その時こそ、笑い飛ばせるように、昔話に縋らなくても生きて行けるように。
 矜持を持って清く正しく美しく生きていく。


 

 

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