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戒厳信仰

漁村というのは、省スペースにいかに人を詰め込むかという理論が働いているからか、なんとなく独特の雰囲気がある。

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唐泊漁港とは、その昔遣唐使船が停泊した事からその名が付いたらしい。からとまり、という音に「唐留」を当てていた自分は、しかし泊まるという字に自発性を感じ取ってそのマイナスなイメージを払拭した。いつか見た奄美大島の港によく似た風景だ。停泊する船がレフ板みたいに風景を白ませる。漁港内に忘れ去られた太古の事務用椅子は、そのキャスターを塩水に浸して時を止めている様にも見えた。

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海祇族というのがある。海神という漢字を当てたり、或いはもっと色々な表記の仕方があるのだろうが、読み方は一貫して“わだつみ”。即ち海の部族だ。

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浅学の身なので色々と語弊や誤りはあるだろうが、大社信仰の礎や沖ノ島の神聖視、水の沸く所を女神として崇めた沿岸に住む人々の事を言うらしい。宗像の信仰も彼らの土着神が自然崇拝や風土と結び付いて今日の宗像大社へと発展していったそうな。つまりは、文字通り、海の神を祀った最初の一族であろうか。

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漁村に行くとそこかしこに小さなお宮を見る事ができる。これは各家がそれぞれに航海安全を祈願しているからこそだろう。また、漁師の間には幾重ものタブーがあるとも聞く。航海が長くなるのを嫌ってうどんや蕎麦を食べなかったり、蛇や猫といった言葉を避けて「ながいもの」と表したり。遠い山奥のマタギにも同じような風習を見る事ができる。海と山。相反する二つを繋ぐものはなんであろうか。

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それは民族風習だろう。迷信とか、民間療法だとか言われるものを現代においても律儀に守り続けているのが彼らなのだ。勿論ここに悪い意味は含まれない。全面的肯定だ。自然に対して世界でも稀な畏怖の念を表す大和民族(とそれに付随する今日の”日本人“と呼ばれる人々)であるからこその風習だとも言えるかもしれない。自然崇拝の最も自然な継承がマタギであり、漁師であり、漁村である。

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D7500のファインダーはいつも正直に世界を見せてくれる。確実に万を超えたであろうその視界は、いつの間にか若干の安心感をつれて来てくれるようになった。少なくともそのファインダー越しの世界には怒りも恐れもない。自分が気にいるものだけを詰め込んだ、無垢な世界と言って良い。その甘美な世界だけに酔いしれて自然本来の暴力を感じる事が無い世界になったなら、自然崇拝は淘汰され、漁村はまた違った表情を見せてくれる事だろう。

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