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1.数年前の「#甲状腺機能亢進症」の経過公開 ◆ 2.昭和の暮らし

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1.数年前の「#甲状腺機能亢進症」の経過公開 ◆ 2.昭和の暮らし

最近の記事

昭和の暮らし:(25)アイロン

最近アイロンを衣類スチーマーに買い替えた。そのときに、昔のアイロンの様子を思い出した。 母が新婚のときに買ったらしきアイロンは、まだスチーム機能がなく、太い電気コードがほつれてきていた。昔のコードは糸で巻かれていたから。母によると、そのアイロンの前まで、つまり婚前は熱湯を入れるアイロンを使っていたという。 アイロンは木の箱に入っている。 蓋も木の薄い板に、ひっかかるところを作って本体を納める箱の上にはめるような蓋だった。その蓋を裏返して畳の上に置くと、熱いアイロンを載せら

    • 昭和の暮らし:(24)ほうき

      60年代、70年代は、板葺きの床はお勝手(台所)と廊下ぐらいで、居間や客間は畳敷きが基本だった。1975年ぐらいまで、我が家には6畳間が2つあって、どちらも庭に面していた。 いつごろ掃除機がうちに導入されたか、もうすっかり忘れてしまったが、60年代にはまだ「ほうき」と「ぞうきん」だけで掃除をしていた。 母が昼間に、庭に続く掃き出し窓(文字通り)を開け放ち、畳の目に沿ってほうきをかけていく。それなりにホコリが外に出ていく。 今は見かけないサイズのほうきが各家庭にあった。全

      • 昭和の暮らし:(23)電子ジャー

        米屋のことは書いたが、お米をどんなふうに炊いて保存していたのかは書いていない。 小学校に上がる前の60年代、我が家ではガスで炊飯して、残ったら冷や飯として食べるか、焼き飯にするなどしていたのかと思う。 70年代になると、保温ジャーという電化製品が出てきた。ガスで炊飯した米を保温ジャーに移し替えると、温かいごはんを食べることができる。 家事をする人にとっては朝昼晩と米を研いだり炊いたりしなくてよくなったのは大革命だっただろう。しかし、この保温ジャーに数時間入れられたご飯は

        • 昭和の暮らし:(22)基礎英語と今夜もシャララ

          「増築」をしたことを書いたが、それが小学6年生のときに完成し、妹と私は自分の部屋を持った。1970年代後半のことだ。 中学校に上がり、かといって自室の勉強机で勉強するふりをして漫画を描く毎日だった。勉強も少しはやった。 好きな勉強は、ラジオで「基礎英語」「続・基礎英語」を聞くことだった。そのために、自室にラジオを持ち込んでいた。父が野球を聞くために60年代最後か70年代のはじめぐらいに購入したザ・昭和のラジオのお下がりだった。木枠のなかにつまみやスイッチがついた部分と、大き

        昭和の暮らし:(25)アイロン

          昭和の暮らし:(21)アッコちゃん

          小学生の女の子たちは、テレビで夕方に始まる少女のためのアニメを見ることが何よりも楽しみだった。当時は「アニメ」とも呼ばず、漫画と言っていたように思う。毎週楽しみで楽しみで、見忘れるなんてことは全くなかった。妹とテレビの前に並んで座って、放映開始時間になるのを待った。 「魔法使いサリー」や「ひみつのアッコちゃん」は、私の血肉の一部と言ってもいい。テクマクマヤコンにあこがれて、自分も変身できればいいのにとか思っていたのだろうか、もう子供心は忘れてしまった。 アッコちゃんの鏡の

          昭和の暮らし:(21)アッコちゃん

          昭和の暮らし:(20)プール

          昭和40年代は間違いないけれど、記憶には曖昧なプールのことを書いてみる。小学校に上がる前か、上がってすぐか、そのぐらいの頃のことである。おそらく最初にプールで遊んだのは、市営の瑞穂プールだったと思う。幼児用の浅いプールと、一般用の25メートルぐらいのプールが屋外にあった。さらに競泳用のプールが室内にあったような気がするが、あまり自信はない。 とにかく、その幼児用の浅いプールでも浮き輪を使っていた私が、ある日浮き輪なしで水に浮かんで力を抜けるようになった。その瞬間の高揚した気

          昭和の暮らし:(20)プール

          昭和の暮らし:(19)増築

          うちの母屋は昭和40年に完成している。昭和50年には庭に増築して子供部屋を作った。 母屋は北側が生活道に面していて、玄関があった。増築は南側にされた。それまで縁側があった部分を取り壊して新しい建物を繋いだ。 増築の様子をずっと見ていたので、構造や建て方、大工さんへのおやつの出し方など、全部ひととおり見ることができた。 ある晴れた日、まだ棟上げ前に、お風呂だけはコンクリートで先に作っていたときのこと、建築に少し関わっていた父が私を呼んだ。その風呂部分のコンクリートの箱みた

          昭和の暮らし:(19)増築

          昭和の暮らし:(18)洋食

          1960年代後半~70年代前半ぐらいの食生活のうち、和食で育った父母が初めて試しに買ってみた感じの食品、洋食の類を思い出してみる。 レタスは、初めて食べる食材という様子だった。母によるとバナナも、結婚前ぐらいに食べ始めたそうで、最初は気持ちわるかったと言っていた。私が幼い頃は常食していたので、かなり普及していたのだろう。 ブロッコリやらプチトマトやらは、けっこう大人になってから見た。カリフラワーはすでにあった。学校給食でも出た。 当時は、関西地区では納豆を食べる習慣がなく

          昭和の暮らし:(18)洋食

          昭和の暮らし:(17)80年代のアルバイト

          80年代になると、私も大学生になり、自分のお小遣いを稼いで好きなものを買うことができるようになった。大学在学中にはいろいろなアルバイトをした。 最初に働いたのはジャスコだった。現在イオンと呼ばれる、あのジャスコである。ジャスコにはよく家族で買い物に行っていたが、買い物では通ることがなかった紳士服売り場でアルバイトを始めた。 社員2名に、パート・アルバイトが5名という編成だった。 社員よりも長く努めているパートのおじさんは、紳士服の専門店での経歴あって、ネクタイを選んだり紳士

          昭和の暮らし:(17)80年代のアルバイト

          昭和の暮らし:(16)珈琲好き一家

          父はコーヒー好きだった。 近所の喫茶店はあちこち常連だったようだが、子供の頃はそのことをあまりよく知らなかった。一度か二度、隣の区の喫茶店に連れて行ってもらった記憶がある。ウィンナーコーヒーを注文して、生クリームとともにコーヒーを啜った。子供のころ、クリームソーダやお子様ランチを注文させてもらえるような家庭ではなかったので、そのウィンナーコーヒーのことは今でも目に浮かぶぐらい覚えている。 喫茶店の珈琲は、サイフォンだったか、煮出したコーヒーだったか、別の方法で抽出していた

          昭和の暮らし:(16)珈琲好き一家

          昭和の暮らし:(15)米と灯油の配送

          幼稚園のころは、家で使う米は、米屋が軽トラで家に配達に来ていた。その後スーパーで買うようになるが、父の田舎から送られてくる米を食べることも多かった。 米を縦型の大きな「米びつ」に入れて、唐辛子を入れて保管していた。今検索すると「昭和レトロ 米びつ」などで出てくる花がらの縦長脚付きの米びつで、ボタンを押すと1合分のお米がさら~っと出てくるのだった。上に電子ジャーを置けるようになっていた。 お米やさんは、米だけではなくて、灯油も配送していた。 冬は灯油のストーブか、こたつで過

          昭和の暮らし:(15)米と灯油の配送

          昭和の暮らし:(14)市バスと市電と地下鉄

          名古屋市には路面電車(市電)があった。 名古屋まつりの頃は、花電車、花バスというのが走るというので、予定の時間になると家族で道に出て花バスを待った。ちょっと遠出をして花電車を見に行ったこともある。 1960年代は市電が次々廃線になり地下鉄が少しづつ開通していく時代だった。うちの近所は当時はバスしか通ってなかったので、市電に乗るためにバスで笠寺線という市電の駅まで行って、そこから中心街などへでかけていた。新瑞橋駅がバスと市電の乗り換え駅だった。 バスで新瑞橋へ買い物に行くこ

          昭和の暮らし:(14)市バスと市電と地下鉄

          昭和の暮らし:(13)近所のお店

          幼稚園の頃、買い物に連れて行かれたときのことや、昭和のお店のことを書いてみる。 昭和40年代は、お店が小売店として独立していて、チェーンとかスーパーなどもなかった。近所には、床屋さん、薬屋さん、本屋さん、文房具屋さん、化粧品やさんなど、歩いていける範囲にいろいろなお店があった。 小売店がひとつの建物に集まっている「市場」とか「センター」とか呼ばれるところもあった。よく行っていたのは、S市場、Fセンターなどだった。 S市場は、入り口の右手にお肉屋さんがあってショーケースに

          昭和の暮らし:(13)近所のお店

          昭和の暮らし:(12)幼稚園の思い出

          私はあまり友達のいない子どもだった。 内向的な性格というのもあったけれど、近所の幼稚園ではなく少し離れたところに通っていたので、アウェイでの戦いだったからかもしれない。 そういうこともあってか、幼稚園が楽しかったという思い出はない。園児は大勢いて、しつけが大変そうだった。先生たちは怖かった。 入園の前に、一度幼稚園に説明会のようなものを聞きに行ったことは鮮明に覚えている。とにかく私が泣いて、帰りがけにも泣いていたからだ。 その日は、着いたときか、あるいは帰りのバスを待つバ

          昭和の暮らし:(12)幼稚園の思い出

          昭和の暮らし:(11)子供の遊びとおもちゃ

          妹と私は近所の同年代の子たちと公園や庭や玄関先で遊んだ。記憶の中で一番古い遊びは、ぶらんこか、積み木か、そのあたりかと思う。 当時、公園にはぶらんこ、滑り台、砂場、鉄棒、雲梯ぐらいがあったように記憶している。いとこが遊びに来たら、その公園の遊具のない広いスペースでバドミントンをした。お正月には羽根突きをした。 近所の友達と遊ぶのはたいていこの公園だった。かくれんぼ、はじめの一歩、鬼ごっこ、竹馬が流行ったときもその公園で練習をした。 「かかし」というケンケンパをする遊びは飽き

          昭和の暮らし:(11)子供の遊びとおもちゃ

          昭和の暮らし:(10)オルガンとお習字とお絵描きと

          幼稚園を上がり「習い事」をする年齢になり、私はオルガン教室に通い始めた。オルガン教室は、うちから小学校へ向かう途中の、薬局の2階でやっていた。 母は私にピアノを習わせたかったそうだが、なぜかオルガンを習うことになった。その経緯は覚えていない。 学習机は中古なのに、オルガンは新品を買ってもらった。母の期待の現れだったのかもしれない。 オルガン教室の先生は少し厳しい女性で、教え方が上手だったとは言い難く、私はなかなかうまく弾けるようにならなかった。 母の計画では、オルガンを2

          昭和の暮らし:(10)オルガンとお習字とお絵描きと