昭和の暮らし:(20)プール

昭和40年代は間違いないけれど、記憶には曖昧なプールのことを書いてみる。小学校に上がる前か、上がってすぐか、そのぐらいの頃のことである。おそらく最初にプールで遊んだのは、市営の瑞穂プールだったと思う。幼児用の浅いプールと、一般用の25メートルぐらいのプールが屋外にあった。さらに競泳用のプールが室内にあったような気がするが、あまり自信はない。

とにかく、その幼児用の浅いプールでも浮き輪を使っていた私が、ある日浮き輪なしで水に浮かんで力を抜けるようになった。その瞬間の高揚した気持ちは今でも蘇る。浮き輪で水遊びをするだけでも楽しいのに、これまで味わったことのない浮力を体験して、一気に「水泳」という世界が広がったのだ。

小学校に入学すると体育の時間にプールの授業があるので、その頃には浮いたり、泳いだりはできるようになっていたんじゃないかと記憶している。

小学校の水泳の時間だけでも楽しかったが、家族や友達と、市営のプールへ遊びに行くのも楽しかった。瑞穂プール以外に、昭和40年代には名古屋市営のプールが各区にできた時期だったと思う。6年生ぐらいになると友達だけでバスに乗って、吹上にあった昭和区のプールまで行ったりもした。天白区にプールができた時期は遅かったが、やはり小学校高学年のころ近所のおばさんに連れて行ってもらった。

それらのプールは、今は市営のスポーツセンターなどに建て替えられたり、あるいは生涯学習センターになっていたりしているのではないだろうか。よく調べていないので、間違っているかもしれない。

市営のプールは子どもにとってありがたい施設だった。

プールといえば、もう一つ忘れがたい場所がある。みよし市(当時は西加茂郡三好町)にあった三好流水プール(リッチランド)である。昭和40年代後半に、父の車に乗って、家族で遊びに行った思い出のプールだ。流水プールが環状に流れていて、いつもより速く泳げるのも楽しいし、ウォータースライダー初体験もそのプールだった。妹と私は、もう水着が擦り切れるぐらい何度も滑った。

最初に行った年には、弁当も持たずに、食堂も満員で、昼ごはんになりそうなものを探して自販機のカップヌードルにたどり着いた。カップヌードルの自販機は、お金を入れて出てきたカップヌードルに、自販機備え付けのお湯入れからお湯を注ぐものだった。そのお湯も、混雑でちょうど切れていて、出てこない。係員が何度もやかんを持って行き来していた。
やっとお昼ごはんを手にして、お湯を注いでもらって食べたカップヌードルがまた美味しくて、家族全員が楽しんだ。その証拠に、翌年も、翌年も、お盆の時期に父の車で遊びに行って、しばらくは我が家の夏のレジャーの定番になった。

やがて、私も妹も成長して、家族で出かけることが減り、プールも恒例行事ではなくなった頃、私が高校から大学へ進学する直前の冬に、高校の部活の仲間と一緒に、スケートリンクへ遊びに行ったことがある。このスケートリンクは、夏に流水プールになる三好の同じ場所である。だから昭和60年代ぐらいまでは三好流水プールは存在していたはずである。まもなく、閉鎖のニュースを聞いたような気がする。スケートもプールもブームが去った頃である。