昭和の暮らし:(19)増築

うちの母屋は昭和40年に完成している。昭和50年には庭に増築して子供部屋を作った。

母屋は北側が生活道に面していて、玄関があった。増築は南側にされた。それまで縁側があった部分を取り壊して新しい建物を繋いだ。

増築の様子をずっと見ていたので、構造や建て方、大工さんへのおやつの出し方など、全部ひととおり見ることができた。

ある晴れた日、まだ棟上げ前に、お風呂だけはコンクリートで先に作っていたときのこと、建築に少し関わっていた父が私を呼んだ。その風呂部分のコンクリートの箱みたいな構造物の上まではしごで登らせてくれた。遠くまで見えた。それまで平屋に住んでいた私ははしゃいだ。
父は、「ちょうどこの位置に子供部屋ができるから、これがお前の部屋から見える景色だ」と教えてくれた。わくわくが止まらなかった。

完成した増築部分の外側には、狭くなったけれどそこそこの庭ができた。父がコンクリートで洗い場を作って蛇口をつけた。そこで運動靴を洗ったり、飼っていた文鳥の鳥かごを洗ったりした。父は小屋組みもしてトタン屋根の小屋も作った。花壇は残ったので、沈丁花や紅葉の木も残った。

増築部分の1階には廊下と広い部屋、風呂ができた。
昭和40年代は居間も台所も6畳ぐらいの広さしかなく、今思えば狭かった。建て増した1階の部屋は8畳ぐらいあって、ものすごく広い部屋がうちにできたという喜びがあった。

それまでなかった脱衣所もできた。脱衣所には洗面台と洗濯機置場がついて、外で洗濯しなくてもよくなった。風呂は、50年代でもタイル張りだった。ただ、浴槽はタイルではなくステンレスの浴槽を入れた。そしてうちに待望のシャワーがついた。

シャワーがあると、いつでもお風呂で身体を洗うことができるようになるということで、「風呂を焚く」という家事から半分開放され柔軟にできるようになった。水栓からはお湯と水の混合水が出てくる。電気温水器を備えたからである。

当時の電気温水器は大きかった。人の身長より高い、円柱の腕を回せないほどの巨大な設備が家の前に立つ。うちは垣根に隠して建てたけれど、電気温水器の存在感はすごかった。

そんな温水器のおかげで、それからさらに10年後の昭和60年代の女子大生からOL時代も、朝シャンしたり朝風呂をしたり、自由な時間に入浴することができる時代になった。
小学生の頃、薪でお風呂を焚いていた時代は遠のいた。

増築の話に戻り、二階には妹と私の部屋ができた。うちに初めての「階段」ができた。

子供部屋の内装の色を選んでいいと言われて、小学校高学年になっていた我々子どもたちは喜んだ。カタログから、私は黄土色の塗り壁、手毬の絵柄のふすま、黄土色のカーテンを選んだ。妹は緑の塗り壁、緑のカーテンを選んだ。ふすまの絵柄は覚えていない。私の部屋だけに、洋服ダンスも作り付けられた。
まだ壁紙というものはなく、防寒の対策もそれほどない時代の家である。窓がアルミサッシになったので、隙間風もなく、雨戸を閉めなくても雨が入ってこなくなった。

自分の部屋を自分で管理できるのは楽しかった。寝るときは押入れから布団を出して畳の床に敷いて寝た。妹の部屋まで布団を持って行って一緒に寝ることもあった。妹が私の部屋に来て寝ることもあった。
フローリングやベッドという考えは父母にはまだなかった。

夏やエアコン(当時はクーラーと呼んでいて、暖房機能はついていない)、冬は何も暖房がなかった。寒かったら居間でこたつに入って家族と一緒にテレビを見る。お風呂に入って湯冷めする前に布団に入る。昭和とはそういう時代だった。

我が家はこのようにして4LDKの家になった。DKといってもKだけの広さのDなので、5Kといったほうがいいかもしれない。家族個々に自分の部屋がある幸せな暮らしができた。

大学生まで学生生活をその部屋ですごした。
転職してしばらくOLとしてその部屋に住んでいた時期もある。
最後にはテレビや本棚、こたつ、ガスファンヒーター、自分用の掃除機やFAXつき電話まで持ち込んですっかり狭くなっていた。

その家は、2000年代初頭にリフォームして、かなり姿も変わった。居間とキッチンを一部屋のLDKにし、かつて薪で風呂を炊く釜があった勝手口を閉じたらしいが、リフォーム前には家を出ていたので、どんな感じの家になったか、よく知らない。