昭和の暮らし:(10)オルガンとお習字とお絵描きと

幼稚園を上がり「習い事」をする年齢になり、私はオルガン教室に通い始めた。オルガン教室は、うちから小学校へ向かう途中の、薬局の2階でやっていた。

母は私にピアノを習わせたかったそうだが、なぜかオルガンを習うことになった。その経緯は覚えていない。
学習机は中古なのに、オルガンは新品を買ってもらった。母の期待の現れだったのかもしれない。

オルガン教室の先生は少し厳しい女性で、教え方が上手だったとは言い難く、私はなかなかうまく弾けるようにならなかった。
母の計画では、オルガンを2年習わせたあと、ピアノに移行するつもりだったようだが、私が乗り気ではなかったためオルガンだけで卒業した。最初からピアノを習っていたら違っていたかもしれない。

それでも、鍵盤の経験になったので、その後の音楽の授業や部活などで困ることはなかった。授業のピアニカの演奏も、学芸会のアコーディオンも問題なくできた。しかし、当時私は楽器よりも、どちらかというと歌うことが好きだった。

オルガンはすぐに辞めたけれど、お習字は長くやっていた。習字教室には妹と一緒に行っていたからだ。近所のお友達もいた。かといって、習字が好きということはなく、中学に上がったときにやめてしまった。

小学校の高学年に差し掛かり、お絵描きの教室が近所にできたので、みんなで習いに行った。絵を書くのは最高に楽しかった。先生が優しくて、なんでも肯定してくれたからだった。
教室は先生のお宅の居間で、大きな座卓にみんなで座って絵を書いたり工作をしたりした。お菓子も出してくれた。ずっと描きたかったけれど、先生が新婚で、赤ちゃんが生まれることになって教室が閉鎖になってしまった。

妹は、当時の子供が必ず行っていた「そろばん塾」に通っていた。私は行かず、6年生になってから学習塾に行った。
学習塾は、ここも先生のお宅の台所だった。先生は学校の先生で、夕方近所の子たちを集めて勉強を教えていた。学校の国語や算数の補習のようなことをしてくれて、すごく分かりやすくて、大好きだった。

5年生から英会話にも行っていた。これは、近所の小さな貿易事務所の社長さんが、近所に簡単なプレハブを建てて始めた教室だった。最初はその社長さんが先生だったが、すぐに仕事が忙しくなって新たに先生を雇ってくれた。
新しい先生は帰国子女の大学生で、英語が堪能だし教えるのも上手だった。私は英語に夢中になり、英語の発音や、いろんな表現を覚えた。

その英語塾も残念ながら閉じてしまった。私は何も習い事をしない中学生になって、合唱部に全時間を使うようになった。そのときになってはじめて、ピアノが弾けるようになりたいと思った。