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#34 書くことは、自分を愛すること

高校3年生のわたしは、
書くということをこう表現した。

私にとって「書くということ」は、そのときの感情をずっと大切にするためのものだ。感情をそのまま言葉にするなんて、私にはできない。でもそれを自分で確かに「書いた」のなら、その感情はいつまでたっても、そしていつでも、自分の中に大切に持ち続けることができるのだと思う。たとえそのとき「これだ」と納得していなくても、「書きたい」と自分自身が強く思ったことなら。

ものすごい愛さんのnoteを読んで、
今のわたしにとって
「書く」って何だろうと考えた。

「もうあなたは書くことをしてはいけません」「あなたが文章を書くことでよくないことが起こります」と強く言われてしまったら、きっと平気で書くのをやめられる。
でも、今は書くことが日常になってきている。
「そろそろお風呂に入ろうかな」「そろそろごはん支度をしようかな」「そろそろ寝ようかな」の中に、「そろそろ文章を書こうかな」が当たり前に入ってきた。

8月5日│ものすごい愛│note

”書くことが日常に”

わたしは学生のときから、
たくさん書いてきた。
ノート何十冊分にもなる。
そこには、ミーティングのメモや
誰かの講演、読んだ本の内容もあれば、
自分の想いを吐露しているものもある。

度々読み返す。
「こんなことを考えてたんや」
「今なら、こう思うなあ」
などと、自分に対して
あたらしい発見がある。

その時間は至福だから、
未来に読むために書いている
ようなところもあるのかなあ。

最近、noteを書くようになって、
心が動いた記録を残しているのは
未来の自分のため
だと思う。

未来というのは、
何年、何十年という先でもあり、
数日後、数ヶ月後、でもある。

だから、ものすごい愛さんの
この言葉がしっくりと馴染んだ。

本が発売されるまで、わたしはずっと自分のために書いているつもりだった。
自分の経験と、自分の感情を、自分の言葉にして、自分のための一冊にまとめる、最初から最後までその作業に没頭していた。

8月5日│ものすごい愛│note

しかし、noteの最後には
こうまとめられている。

ずっと、わたしは誰かに勝手に救われる人間だった。
そして、わたしが救えるとはわたし自身だけだった。
それが、「救われました」という言葉によって、ちゃんとひとつひとつがやさしく繋がっているものなんだねと、涙が出そうになった。
自分が、誰かを救える側の人間だとは、今でも微塵も思っていない。
5年後、10年後、もしかしたらわたしは文章を書くことをやめてしまっているのかもしれない。
でももし、そのときも文章を書いていたら、書かせてもらえるのだとしたら、今までもそうだったように、自分の経験と自分の感情を、自分の言葉で表現できる人間でありたいと思う。

8月5日│ものすごい愛│note

”ちゃんとひとつひとつが
やさしく繋がっているもの”

書くことによって、
初めてそれに気づく。

もちろん誰かに聴いてもらったり
LINEのやりとりでも
気づくことはあるけれど、
自分で書いた文章、
自分で選んだ言葉を読み返すことが
一番”そのときのわたし”を
振り返る機会になっている。

そこには、その時の書きたいことがあって、
それは、その時のわたし自身だから。

わたしをわたしとして見るために、書く。
わたしを知るために、書いたものを読む。

そうやって、わたしはわたしを
すこしずつ愛していくのだと思う。

最近のテーマは、「自分を愛す」。

そういえば、自分を知るために
noteにこのハッシュタグをつけて
書き始めたのだった。

これからも、続けていきたい。

わたしにとって、書くということは、
自分を愛すること。

だから、ものすごい愛さんの本、
『ものすごい愛のものすごい愛し方、ものすごい愛され方』
を買うことにした。届くのが楽しみ。


photo by 写ルンです│
7月の初めの山陽別府駅の夕日。写ルンですで夕日を写したら、こんなにドラマチックになって、嬉しい。

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