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Episode 017 「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」

この学校、ペニントンプライマリースクールで(Episode015参照)生活していく中で、様々な国の子供たちと触れ合うことができた。また、国が違うとそれに倣い考え方も異なり、やはり面白い。もちろん、国レベルで皆を一概に括る訳(一部の人を見て、全体を判断する)ではないが、それでもやはり国レベルでの違いは子供ながらにして日々肌で感じていた。もちろんそれが、良い悪い、という話ではないし、またどの国の考え方が(他に比べて)優れているなどと言う次元の話でもない。単純に、子供ながらに非常に興味深く感じた。

例えば、学校に来る際も旧ユーゴスラビア人であるマリンコ(Episode016参照)は胸ポケットにも問題なくすんなり収まってしまいそうな程コンパクトな辞書を使っていた一方で(また、その辞書は彼自身の辞書でさえなく、教室の本棚にあった辞書だった。尚、当時は1997年。現在の様にタブレットが身近にある環境ではなかった)、カンボジア出身のホング(Episode015参照)は家から自前の辞書を持ってきていた。因みにこの辞書は相当な大きさの辞書(日本で言うところの、分厚い「広辞苑」的な)で、カバンに入りきらず毎日その辞書を抱えて学校に来ていた。その様子だけを見ても、お国柄の様なものが滲み出ていると子供ながらに感じた。勉強熱心な真面目なアジア人、である。そんな中、マリンコの胸ポケットに入ってしまうほどコンパクトな辞書に関しては、英語のルーツはもともとポルトガル語にあると言われているので、同じヨーロッパの言語というだけでも、我々アルファベットを使わない言語を母国語とする人間に比べると、(マリンコの様なヨーロッパ人が英語を習うことに対する)余裕の表れだったのかもしれない。確かに、例えば、我々日本人からして、今からサウジアラビア語を習うより日本語とほぼ同じ漢字を用いている中国語を学ぶ方が気持ち的にも余裕が生まれると思う。きっと、当時のマリンコもそのように感じていたに違いない。

ネイルスワースプライマリースクール(Episode012参照)に比べ、この学校、ペニントンプライマリースクールでは「緊張」という要素は少なく、基本的にのびのびと過ごしていた記憶がある(かと言って、では緊張からくる腹痛問題(Episode010参照)は解決されたのか、と言うと答えはNOである)。その理由としては、やはり英語を母国語にしていないもの同士、という環境がそう感じさせたのであろう。つまり、全員が、いわゆる、「外国人」だったのである。とは言いつつも、その中でもやはり同じアジア人同士では、その他の人種とでは通じない、言葉を超えた繋がりの様なものが存在したと子供ながらに感じていた。また、その対極ももちろん存在した。つまり、感覚があまりにも違いすぎるが故、全く理解できない事も、控えめに言っても沢山あった。

例えば、アフリカのソマリアという国から来たファイザルという男の子。彼には性格が穏やかな弟が、別のクラスにいた。しかし、ごくたまに怒りを露わにする時があったのだが、その、怒るタイミングが全く分からなかった。なぜ、そのポイントで怒るのだろう、と首を傾げたし、不思議でならなかった。確かに、日本に住んでいる小学生(Episode002参照)が普段の生活でソマリア人と触れあう機会は極めて低い。むしろ、ほぼ無い、に等しい。たぶん。従って、彼らの行動を理解できなくても、仕方がないと個人的には思う。尚、ファイザルはサッカー(Episode009参照)が非常に上手く、生まれて初めてアフリカ人とサッカーをしたのだが、その上手さに驚きを隠せなかった事を鮮明に憶えている。ファイザルの他に、もう一人サッカーが上手な男の子が居た。彼は違うクラスであったが、おそらく年齢は私と同じ、または一つ上くらいだった。ベトナム人の男の子で名前をヨングといった。彼は兎に角、スピードとパワーが今までみた子供達とはかけ離れていた。サッカーだけではなく、ハンドボール(Episode015参照)をする時もそのパワーを遺憾無く発揮していた。とある昼休み、ヨングに向かってバスケットボールがバウンドしながら飛んできた。彼は、その飛んできたバスケットボール拳でパンチしたのだ。私はその様子を目撃し、何故か分からないが「かっこいい」と思い、自分も真似した事があった。真似した結果、手首を捻挫したのだった。20数年以上経った今(2024年時点)でもその痛みは右手の手首に残っている。その鈍い痛みを感じる度に、当時、バスケットボールをパンチしたヨングを真似た当時の自分の情けなさを痛感している。タイ人であったエッカチャイ、通称エック(Episode015参照)もそこそこサッカーが上手かった。その他には、私より後に転校してきた生徒でジョセフ(旧ユーゴスラビア人)という男の子がいたのが、彼もそこそこ上手かった記憶がある。

1997年。先生と握手をしている私。
左の黒人の彼が「ファイザル」。サッカーがめちゃくちゃ上手だった。

因みに、「旧ユーゴスラビア」という言い方をしているのには理由がある。旧ユーゴスラビアでは1990年代に内戦が起こり、その結果、ボスニアヘルツェコビナ社会主義共和国、マケドニア社会主義共和国、セルビア社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国、モンテネグロ社会主義共和国、スロベニア社会主義共和国の6つの国に分かれる事になった。周りにいた友達の多くは、ボスニアヘルツェコビナ社会主義共和国、セルビア社会主義共和国、クロアチア社会主義共和国のこの三つに国から来た子供達であった。もちろん、世界情勢の話はいつの時代でも、それはあまりにも複雑で、一言で問題を指摘することなど到底できないものであるのは当然なのだが、それにしても、今まで自分が住んでいた国が政府の意向(つまり、戦争をするに至った)で別々の国に分けられ、お互い本来同じ民族であった者同士が殺し合いを行わなくてはならない状況になり、終には別々の国旗を掲げる違う国になる、というこの状況は、自分を含め、日本で生まれ育った日本人の我々には想像すらできない事と思われる。この出来事を実際に体験した彼ら(友達)は、具体的にどの様な気持ちになったのだろうか。実際にその体験をした彼ら以外の人には到底理解する事はできないのであろう。この現象(一つの国が戦争により分裂される現象)日本で例えるならば、政府の勝手な考えが理由で、例えば戦争が勃発し、「明日から、関東地方対近畿地方の間で戦争をして下さい。因みに、関東地方にはアメリカの軍隊、近畿地方にはロシアの軍隊が応援に駆けつけます。では、頑張って」といった感じであろうか。そして、その日から、関東地方及び近畿地方は、別の国、となるのである。なかなか、現実味のない話である。しかし、こういった事が実際に(旧ユーゴスラビア内で)起こったのである。

ユーゴスラビアはスロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、マケドニアの6つの共和国と、セルビア共和国内のヴォイヴォディナとコソボの2つの自治州によって構成され、各地域には一定の自治権が認められた。これらの地域からなるユーゴスラビアは多民族国家であり、その統治の難しさは後に「七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家」と表現された。

休み時間(中休み及びお昼休み)になると、校庭で毎日の様にサッカーをしていた。前の学校であるネイルスワースプライマリースクール同様(Episode012参照)、全面芝生の校庭であった。改めて感じるが、日本人のサッカーのレベル(ある程度の年齢まで)は、世界に引けを取らないと自負している。自分自身も当時はどの国の子供が相手であろうがドリブルで抜き去る事はそんなに難しいと感じていなかった。そんな事もあり、周りには「シンゴはサッカーがうまい」というイメージが植え付ける事ができた。その反響か、休み時間にはサッカーをしている私を見に来てくれる女の子が沢山いた。中には、私がサッカーをしている姿を自前のカメラを持参し写真に収める子もいた。その中の一人に、特に積極的な子がいた。確か名前をバーニャと言った。周りの友達からは「バーニャはシンゴの事が好きらしいぞ」ということはよく聞いていたが、調子に乗っていた私は、敢えて見向きもしなかった。全くもって子供である。照れ隠し以外のなにものでもなかった。今、当時にタイムスリップする事ができたら、こう自分自身に伝えたい。「調子に、乗るな」と。とある日、いつもの様にお昼休みをサッカーをして楽しんでいた時、アジア人の男の子にふくらはぎを後ろからもろに蹴られたことがあり、珍しく頭にきてしまいその男の子を突き飛ばした。その後喧嘩になり、職員室で事情を訊かれたのだが「この子が僕のふくらはぎをわざと蹴る様なことをしたから、悪いのはこの子です」と、そう説明したかったのだが、英語でそれが言えず、悔しくて泣いた思い出がある。因みにこの男の子は、アジア人の男の子で、太った体で、黒縁メガネをかけており、ちょうどキャイーンの天野に似ていた。20数年経った今でも、キャイーンの天野を見ると、当時の事を思い出すのだった。

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