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短編小説 「墨が吐けないタコは最強なんだ」


冷たい北の海の底、巨大な岩礁の暗い陰に、灰色の身体、私、ミズダコのタッコウは隠れて住んでいた。周りは静寂に包まれ、時々遠くから聞こえる魚たちの群れの音だけが私の耳に届いた。今日もこの冷たい暗闇の中、外の世界や海の広さを知らず、孤独な日々を過ごしていた。私には他のタコたちとは一線を画す特徴があった。それは、黒く濃密な墨を吐き出すことができないこと。

「タッコウ、また墨を吐けなかったの?」と仲間たちのからかう声が岩の隙間から聞こえてきた。その声には明るさもあれば、冷ややかな笑いも混ざっていた。

「心配しないで、いつか墨を吐ける日が来るさ」と暖かな気持ちで私を慰めてくれる者もいた。彼らの言葉に心を寄せてみても、私の胸の奥にはいつも重い疑念がひっかかっていた。私は本当に、あの濃い墨を吐ける日が来るのだろうか。その疑念は、冷たい海水よりも私の心を冷やしていた。

ある日、冷たい海の中、岩礁の隠れ家にいる私の目の前に、突如として見知らぬ生き物が現れた。それは小さく、華やかな色に彩られたタコ、メンダコのメンダーだった。彼の体は煌めくような色彩で、私の灰色の身体とは対照的であった。その鮮やかさは、暗い海の中でひときわ目立っていた。

彼は好奇心に満ちた目で私を見ながら、「君はここに住んでいるのか?」と軽やかな声で話しかけてきた。

少し気後れしながら、「ええ、墨を吐けないから外に出られないんです」と答えた。その言葉には私の孤独と悲しみがこもっていた。

しかし、メンダーはそれを聞いて、目を細めて楽しそうに笑った。「僕も墨を吐けないんだ。メンダコは墨を吐けないんだよ。でも、それがどうしたって感じで、この大きな海を自由に旅をしているよ」と彼は元気よく笑いながら話していた。

その言葉に、私の心は躍った。ダラッとした頭を上げて、メンダーの目をしっかりと見つめた。墨を吐けないという共通点に、運命を感じた。

「でも、天敵から逃げるとき、どうしてるの?」と私は心の中でずっと抱えていた不安を口に出してメンダーに尋ねた。

彼は温かな目で私を見て、にっこりと微笑みながら答えた。「逃げる方法はいろいろあるよ。波の音に身を任せて速く泳いだり、岩や砂の下に隠れてじっとしたりね。墨を吐けないことが、絶対的な弱点になるわけじゃないんだ」

メンダーの言葉には深い確信が感じられ、私の中の不安や疑念は、彼の温かさに溶けて少しずつ晴れていった。私は気づいた。墨を吐けなくても、それが自分の特別な存在理由であることに。

興奮と期待に胸を膨らませ、私はメンダーに一緒に旅をしたいと頼んでみた。彼は目を輝かせて、「それは楽しそうだね、面白い一緒に行こう」と心からの言葉で応えてくれた。

数日後、私たちは岩礁を背にして冒険の旅に出発した。仲間のタコたちが集まり、驚きや興奮の中で私たちを見送った。彼らの中には、墨をちびりながら私の冒険を祝福してくれるものもいた。

そして、私は初めて岩礁の外へメンダーと泳ぎ出した。目の前に広がる海は壮大で、水面の上から伸びる太陽の光が海の中深くまで柔らかく差し込んでいた。色とりどりの魚たちが群れをなして泳ぎ、珊瑚や植物が揺れるその美しさに、息をのんだ。

海の中には、まだ知らない多くの生き物や景色が広がっており、そのすべてが新鮮で魅力的に感じ、墨を吐けない私でも、この大海の中には無数の可能性と冒険が待っていることに気づいた。

そして、私の側にいて、墨のない私を暖かく受け入れてくれるメンダーに、心からの感謝と愛を感じた。





時間を割いてくれて、ありがとうございました。

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