見出し画像

大事なときに雨が止んだのはきっと、貴女のおかげだろう



人は、あんなにも
冷たくなってしまうものなんだね。

7月23日、わたしの母方の祖母が亡くなった。

本当に小さい頃から、遊びに行っていて
面倒を見てもらっていた。


わたしは幼少の頃から
何が好きとか何がしたいとか
あまり言っていない気がしたから
きっと接するのも悩んだのではないかと思う。


それでも、祖母はお散歩に連れ出してくれていた。


近所の公園、薬屋、駄菓子屋
新しくできたコンビニ

ちょっとバスに乗って駅の本屋さんに寄ったり、歩いてしまむらに行って、帰りは団子屋さんで磯辺団子を買って帰る。

画像2


行くところは大抵決まっていた。
それでも楽しかった。


朝ごはんは、いつもダブルトースト。
網でいつも焼いていた。
母が網で焼くと焦がすのだけど、
祖母はちょうどいいサクふわ食感で焼いてくれた。

自分のコーヒーを作って、もうひとつのコップに少し移す。それを早くに亡くなった祖父の仏壇に供える。


「おとうさん、おはよう」


そう言って仏壇の扉を開けて、挨拶していた。わたしが中学2年生になって、愛知に引っ越してしまったため、それからは今までと比べて遊びに行ける日が格段に減ってしまった。


ひとりの時間が長かった祖母はどう思って過ごしていたのかと思うと、その間にもう少しできたことがあったのではないかと今さら思う。

夜、わたしが幼い頃寝られないときがあった。
今となってはお昼寝のしすぎ、もしくは夜更かしの習慣がついてしまったからだと思うのだけど「なんで普通にわたしは寝れないのだろう」と自分を責めしくしく泣いてしまうことがあった。


今はバカだなあと思うけど、その頃は真剣そのもので。
それに気づいた祖母は「大丈夫だから。無理に寝なくてもいいんだよ」と声をかけてくれた。


祖母はわたしが自宅に帰るとき、いつも見送ってくれていた。
その姿を見ると、「今度はいつ会えるのだろう」と心がぎゅっとなり、泣きそうになっていた。


気にはしてなさそうに、ふつうに淡々と過ごしていたように見えた。
今 わたしが一人暮らしだからわかるけど、誰かが来てくれて帰った後の自分の家はとてもしんとしていて淋しくなる。


祖母は淋しかっただろうな。


わたしが社会人になった頃くらいに祖母は認知症が進んでしまい、施設に入った。

わたしの姿を見てもわからなくて、名前を出すとわかるくらい。
小さい頃のわたしは可愛かったんだよと嬉しそうに何回も話していた。

そして、「ちゃんと食べなさい。お母さんとお父さんの言うことはよく聞きなさい。お金は無駄遣いしちゃダメだよ」


その言葉を聞けるのは後何回なのだろう。
何回 話している姿を見て泣きそうになったかわからない。


ある日 施設にわたし一人で行ったことがある。


行った時には、祖母はずっと寝ていた。
言葉も聞けなかった。
それがわたしが祖母に生きていたとき会えた最後の瞬間だと思う。

本当に数年前。

何かしら理由をつけて、行かなかった。
怖かったのだ。


「誰?」


と言われてしまうことが。
思われてしまうことが。


なかったことにされてしまう気がして。
たまらなく怖かった。


逃げて、ごめんね。


亡くなった話を聞いて、
過去の思い出を思い出す度に涙は流れる。

新幹線の中で書いた祖母への手紙。
ちゃんと届いているといいなあ、
ごめんねとありがとうの手紙。

画像1

思い出の記憶は、
わたしの中で大切にしていこう。
受け入れるにはまだ時間がかかるし、
また涙を流してしまうかもしれない。


でも、それだと祖母が悲しむから
頑張って前を向きたい。


わかりにくい子供のわたしを
優しく受け入れ面倒を見てくれた祖母へ


ありがとう、とても大好きです。


祖父とやっと2人になれたね。
お疲れ様でした。


見守っていてね。

今日は気がすむまで泣かせてください。

ありがとうございました。

#110


サポートしていただけた暁には、美味しい鮭を食べたいと思います🐟 そして、その美味しさを噛み締め、またみなさんへ何か伝えられるようなものをお届けできるよう頑張ります!