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〈小林秀雄試論〉全

       
  
1.はじめに
    作品は何処へ帰着するのか、という問いが、批評にとって重要に思えるのは、そのことが、批評の言葉の帰趨を決定するように思われるからだ。だが、もともと作品は(ということは批評も)、どこかへ帰着する必然性を備えた存在なのだろうか。こういう疑念は、詮じつめれば言葉というものが、一体、誰の所有に帰属するのかという困難な問いに収束していくように思われる。現在まで、この問いに幾つかの立場から、幾つかの答が提出されてきた。いわく、それは、現実の社会に。いわく、それは、言葉を用いる当体に、すなわち人間に。だが、最も優れていると思われる答は、いつもその問いかけ自体を包括し、無化するように差し出される。いわく、言葉は誰の所有でもない、あえてその帰趨する場所をあげるとすれば、言葉は、自分自身に帰属するだけだ、つまり、言葉の歴史的な現在に属するだけの存在であり、それがすべてだ。
   おそらくこのささやかな試論もこの問いと答えの間を行き来しながら、途方に暮れることになるのかもしれない。もともと大それた野心があるわけではない。でき得れば豊穣でみずみずしい不安に遭遇したいと願っているだけである。

2.批評家誕生
   
 近代批評に作者と作品について論ずるその仕方を尋ねれば、おそらく次のような言葉を聴くことができるはずだ。〈・・・作品の背後には作者という具体的な顔を持つ一人の人間が立っている。この場合の作者とは他の人々には窺い知れない資質と個性をたずさえ、他の誰かと取り替えのきかない具体的な生涯という軌跡を描いた(描きつつある)ある人物のことを指している。けれど、この人物は、本来的には言葉の世界でしか出逢うことのない人だ。だから批評も、ある作品を論じようとする場合、言葉を媒介にして作者という一個の人間が描いた幻想の描線のある部分に対応させようとする。つまり、作品を作者=内面を備えた人間という場所に帰趨させるのだ。・・・〉だが、この言葉をひととおり了解することにしても、まだ本質的な問い、答えることが最も困難な問いが残されている。いわく、〈批評とはナニカ?〉というのがソレだ。これは〈批評家〉にとって最初の問いであり、最後の問いだ。〈批評家〉の〈誕生〉と〈死〉に立ち会う問いだ。だから現在までの〈近代批評〉的な著作物にとって、〈批評家〉とはその〈誕生〉の瞬間からその問いを突きつけられ、生涯、その答えを自らの言葉の営為の中に模索しながら、彼の〈死〉まで宿命のように背負い続けることを、強要されるもののことを指していると言ってもよい。何故ならこの問いかけに答え続けようとすることが、〈批評〉への可能性の必須の条件であり、そしてこの問いを自らに問い続けることが、〈批評〉の推進力であり、その生命の源泉だからだ。かって自らの言葉の営為でこの問いに本格的に答えを与えようとした巨匠がいた。
 〈小林秀雄〉。この巨匠は、どう控えめな評価をしても、近代批評の創始者の位置から動きそうにない。
彼こそは、批評の原理や作品や作者を論ずるその仕方の、すなわち、オリジナルな批評の器の鋳型から、その器に盛る言葉という素材の盛り方、素材の調理の仕方まで、ほとんどただ一人で練り上げ、洗練し、一つの型にまで仕上げた、近代批評史上稀有の批評家であった。
  この批評家の出現によって、〈批評とはナニか?〉という問いに対する答えは、ほとんど確定され、不動になったかのように見えたほどだ。

3.初期小林秀雄をめぐって    その(1)
  
    初期小林秀雄は、作家や作品の解析と批評家の自意識を等価とみなすことを批評の方法とすることで、批評家としての出発を遂げた、と言ってよい。これは、ある作品を論ずる批評の言葉の描く軌跡は、批評家の自意識の描く軌跡に他ならないということを意味している。小林秀雄がボオドレールを、引き合いに出した言い方をを借りれば、(ボオドレールの批評の言葉は、すなわち小林秀雄の批評の言葉は)『それはまさしく批評ではあるが、また彼の独白でもある。人はいかにして批評というものと自意識というものを区別し得よう。』。「様々なる意匠」。というように批評行為とは自意識の運動の言語化ということになる。自意識とは自己を志向対象とする意識、自己関係に終始する意識のことだが、小林秀雄の自意識という概念受容の背景には、宿命的な矛盾があったように思われる。それはおそらく西欧の思想や理念が移植されるときに、決まって起こる日本の精神的な風土からの影響によっている。だから小林秀雄の身に起こったことは、多かれ少なかれ日本のインテリすべてが共有する事件だったと言っていい。ただ、小林秀雄が大きな矛盾を抱えたのは、思想が存続するには思想の核、つまり思想の肉体とでも呼ぶべきものが必要だということを、よく知っていたからである。例えば次の言葉はどうか?すでに小林秀雄が批評家として確固とした地歩を築いていた昭和十年の批評文〈私小説論〉の有名な一節。『フランスでも自然主義小説が爛熟期に達した時に、私小説の問題があらわれた。パレスがそうであり、続くジイドもプルーストもそうである。彼らが各自ついにいかなる頂に達したとしても、その創作の原因には同じ憧憬、つまり19世紀自然主義思想の重圧のために形式化した人間性を再建しようとする焦燥があった。彼らがこの仕事のために、「私」を研究して誤らなかったのは、彼らの「私」がそのときすでに十分に社会化した「私」であったからである。』〈彼ら〉=〈ジイドやプルースト〉が誤らなかったと断定しているからには、誤ったものたちがいたのだろうか。『わが国の自然主義文学の運動が、遂に独特な私小説を育て上げるに至ったのは、無論日本人の気質というような主観的原因のみにあるのではない。何を置いても先ず西欧に私小説が生まれた外的事情がわが国になかったことによる。自然主義文学は輸入されたが、この文学の背景たる実証主義思想を育てるためには、わが国の近代市民社会は狭隘であったのみならず、いらない古い肥料が多すぎたのである。新しい思想を育てる地盤がなくても、人々は新しい思想に酔うことはできる。ロシヤの19世紀半ばにおける若い作家たちは、みな殆ど気狂いじみた身振りでこれを行ったのである。しかしわが国の作家たちはこれを行わなかった。行えなかったのではない、行う必要を認めなかったのだ。』
では何処の?誰が?どのように誤ったのか?

4.初期小林秀雄をめぐって その(2)

  19世紀半ばのロシヤの若い作家たちのことはいったん置くにしても、小林秀雄がここで言及しているわが国の作家たちが、「これ」即ち「自然主義文学の運動」を「行う必要を認めなかった」にもかかわらず、「自然主義文学」を輸入し「遂に独特な私小説を育て上げるに至った」経緯は、わが国に外来思想が見当違いに受容され流行しても、その「新製品」が輸入されると根付くこともなく、速やかに忘れ去られてしまう、わが外来思想受容史お定まりの型の、親切を尽くした解説になっている。小林によれば、わが国の作家が、「行う必要を認めなかった」のは、彼らが、「長く強い文学の伝統(的技法)のうちに」生きていたためである。それがために、「外来思想は作家たちに技法的にのみ受け入れられ、技法的にのみ生きざるを得なかった。受け取ったものは、思想というよりむしろ感想であった。」ということになる。日本とはまさに「長く強い」伝統を誇る、希に見るハイテクの「王国」であった、と軽口を叩いても仕方がない。わたしは、再び、はじめの設問に返ろう。「私」の研究において、誰が、どのように誤ったのかという小林の説明に耳を傾ける時、何処か不透明な印象を感じざるを得ないのはどうしてだろう。何故、わたしは、この有名な一節の「誤らなかった」という言い方にひっかかったのか。もちろん、つまらぬ言いがかりをつけたいわけではない。例えば次の引用文、「鴎外と漱石は、私小説運動と運命をともにしなかった。かれらの抜群の教養は、恐らくわが国の自然主義小説の不具を洞察していたのである。」ここでも、「不具」という言葉に同じようにひっかかる。すぐ、胸に来る答えは、小林の「誤らなかった」とか「不具」とかいう言葉の出所に躓いたのではないかということである。これらの言葉は、西欧の文学思想に明瞭な判断の基準がある、という前提なしには出て来ない。もちろん、わたしのこの言い方は、インテリにとって世界に冠たる西欧という小林秀雄の生きた時代と、現在のように西欧も日本と同様単なるローカルな一文化圏に過ぎないという時代の感じ方の差異から、出てくるものだろう。だがわたしが気になったのは、小林が、結果としては世界に冠たる西欧文化の子である個人主義文学(思想)の観点から、わが国の私小説作家やプロレタリア作家を批判しながら、「私小説論」全体を一瞥する限りでは、そこで論じられているすべての文学的な党派を一蹴するというやり方ではなく、いささか隠微とも見える
迂回を繰り返しつつ「私小説は亡びたが、人々は〈私〉を征服したろうか。私小説はまた新しい形で現れて来るだろう。フロオベルの〈マダム・ボヴァリィは私だ〉という有名な図式が亡びないかぎりは。」という結論に至っているという点だ。こういうやり方は、おそらく当時ありうる限りの最上の批評の姿だ。         ここで、小林が本当に擁護したかったのは、西欧の個人主義文学(思想)という名辞ではない。すでに骨肉と化した、小林秀雄の中のもう一人の「私」であったに違いない。小林にとって「私」とは、言うまでもなく自意識という思想の核(コア)であった。あらゆる文学(思想)的な党派を「様々なる意匠」として相対化しながら、ついに、この「私」だけは、相対化しえなかったのは、自身の肉体の存在を疑えないように、自身の思想の骨肉の存在を疑えなかったからであった。けれども、当時の文学(思想)界でこの小林秀雄の内奥を洞察しえたものが、幾人いただろうか。わが私小説作家たちは、「私」が社会化したがために現実の世界から自意識という内面の部屋の中に追い詰められ、作品を造形せざるを得なかったフロオベル、プルースト、ジイドらの「制度化した」思想との苦悩を思い描くことができず、作品の源泉を「日常生活」を生きる自分の周囲に求めるということで自足した。またプロレタリア作家たちにとっては、これも西欧から輸入されたマルクス主義思想に心酔することが、創造することの前提条件であり、文学を政治化することで政治をも曲解し、文学の本質から離れていった。しかも彼らは、わが国の私小説作家たちが、作品造形の源泉としていた「日常生活」を決して手放そうとしなかった。ただ彼らは題材を作家個人のいささか誇張された日常生活の荒廃から、農村や工場という労働現場に転換することで、ブルジョア・リアリズムと異なるプロレタリア・リアリズムを素朴に提唱しただけだ。リアリズムを日常生活の忠実な描写として単純化して捉えた点において、両者は表裏一体である。要するにこの両者が理解すべくもなかったのは、「あらゆるものを科学によって計量し利用しようとする」近代ブルジョアジイの欲望を産み出した当時の西欧社会の現実であり、また、その増大する欲望の支柱となった科学実証主義という社会理念であった。田山花袋が技法的に模倣しようとした「モオパッサンの作品も、背後にあるこの非常な思想に殺された人間の手に成ったものだ。」という言葉は、理念や思想にイカれることの恐ろしさを、骨身に徹して知ったものの言葉である。現在の日仏近代文学比較研究の水準や達成度からみて、小林秀雄の「私小説論」がどう受け取られるのかということは別にしても、小林秀雄の言葉が何処か不透明な印象を与えるのは、外来思想を了解するその事以前に、つまり現実の日常世界に不透明な幕がはりめぐらされているからだ、執拗な迂回を強いられたのは、多分小林秀雄を包んでいるその皮膜が幾重にも巡っていたからだ、と理解する方が順当なのかもしれない。「彼ら」(フロオベル、ジイド、プルースト)が「誤らなかった」という言葉の裏には、西欧近代を代表するフランスの作家たちの研究する「私」と日本の作家たちの研究する「私」の現実的背景の、ということは思想的な背景の相違についての小林のやりきれない思いが横たわっていた。それは鳥からも獣からも異類として追われるコウモリの感じるようなジレンマだった、と。
 だがわたしはここでもう一つ違う理解の仕方をしてみたい。「私小説論」全体に漂っている不透明感と歯切れの悪さの印象を、小林秀雄自身の内奥に差した翳りの表徴として読んでみたいのだ。そのためには小林が「私小説論」を発表する三年前(昭和七年)に書かれた一篇の小説のような批評文〈Xへの手紙〉に触れてみなければならない。

5. Xへの手紙 その(1)

 「私小説論」の全体に漂う不透明な印象、もっと違う言い方をすれば、強烈な自意識の輝きが弱まり、鈍い翳りが漂っている。この翳りが小林の実生活のどんな体験に由来するのか、という疑問が入口である。
  人は現実の中のどんな衝撃的な体験でも、その意味を真に納得するまでには、いくらかの歳月を必要とするようなのだ。つまり、その後過ごす歳月の合間、合間にその体験を反芻すること、もちろん反芻するかどうかは個々人の勝手なのだとしても、その体験からナニカを汲み取り、思想として深化するということは、そういうことだ。年譜によると小林秀雄は、1928年(昭和三年)の五月に元、中原中也の恋人、長谷川泰子との同棲生活を清算している。この翌年四月に「様々なる意匠」という批評文で雑誌の懸賞に応募し二席に入り、問題の「Xへの手紙」が発表されたのが1932年(昭和七年)の九月、三角関係の清算から四年余りの歳月が流れている。批評のような私小説「Xへの手紙」を書くことで、自身の三角関係を公にしたことは、この体験を小林の自意識が潜り抜ける時期が訪れたということを意味している。「様々なる意匠」(1929)で『批評の対象が己であると他人であるとは一つのことであって二つのことではない。批評とはついに己の夢を懐疑的に語ることではないのか !』と述べた小林秀雄の自意識という〈時代意識〉への強烈な信頼が、「Xへの手紙」(1932)以後の「私小説論」(1935)では『私小説は亡びたが、人々は〈私〉を征服したろうか。私小説はまた新しい形で現れてくるだろう。フロオベルの〈マダム・ボヴァリィは私だ〉という有名な図式が亡びないかぎりは。』というようにどこかシニカルな陰影を漂わせているのは、単に『ジイドの転向問題を契機として起こった行動主義文学運動』やわが国の私小説の伝統がプロレタリア文学に征服されたからだという認識が、小林の自意識という光源を皮膜のように覆っているからではない。「私小説論」結末の〈図式〉という言い方は、まるで小林秀雄がかっての〈己れの夢〉を手にとり、苦々しい思いを込めて眺めているようなイメージを喚起させる。わたしたちの近代はいかに欧米と自己同一化するかということを、国家自らが課題のように背負ってきた。これを歴史の必然と呼ぶにしろ、呼ばないにしろ、その課題実現の手足にされた個々の知識人が、自らの到達すべきイメージと現実の自身のイメージの落差を、劣等意識として受け取ってしまうことには必然性があった。そして近代知識人の自意識とはこの劣等意識のことであった。もし憧れの対象としての外来文化に、自己同一化しようとするわが国の近代的な意識の試みが挫折するその仕方に定型があるとすれば、小林秀雄もその定型をまぬがれていないと言うべきである。この比較文化的な面から眺められた近代的な自我の物語を性愛のドラマとして描くなら、初期小林秀雄の自意識が抱えた矛盾は、同性を言い換えれば自己を性愛の対象にしたいと熱望するものが、異性を言い換えれば他者を対象にせざるを得ないという、資質に促された観念的志向と宿業のような生理の必然が、両極へ分裂していくイメージとして描くことができる。本当は批評家が、自己意識を媒介にして関係しなければ、対象である作品は、他者(異性)としてしか現前しないはずだ。だが、鋭敏になりすぎた自己意識が出逢うのは、いつも自分自身が他者という鏡に映った姿であり、当の相手はいつでも一次元だけずれた世界へ逃げ去っている。こういう関係は不毛としか言いようがないし、そのような関係はやがて批評家の自己意識にある転向をもたらすにちがいない。
  「Xへの手紙」の中で『女は、おれの成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしてはこの世を理解していこうとしたおれのこしゃくな夢を一挙にやぶってくれた。』と書いた時に、おそらくこの傑出した知性の転向の契機は顕在化した。この言葉は周知のようにもともと中原中也の恋人であった長谷川泰子と三角関係に陥って、すったもんだの末に別れた後に吐かれた〈近代知識人の名言〉である。〈名言〉が〈名言〉である所以は、生涯の一時期に誰もの心のうちをよぎる、ある感慨を言い当てているからであるが、〈近代知識人の〉という限定がいるのは、わが国の歴史上、また同じようにわたしたちの精神史上、青年期にある〈かれら〉=  (近代知識人)だけが、このような〈こしゃくな夢〉を持ち得るからである

6. Xへの手紙   その(2)
  
 現代に知識人など存在可能かという〈知的な〉問いはしばらく置くとしても、現在の日本のインテリと自称し他称される者たちに、『書物に傍点を施してはこの世を理解』するような『こしゃくな夢』を持つ者がいるとは到底思えない。何故なら第二次世界大戦後、全世界がアメリカナイズされていったことで、かって近代的知識人の自意識にとってプラトニックな憧れでありかつコンプレックスの対象であった同性(男)としての西欧は老い衰え、彼らの無意識にとって愛憎の対象であった異性(女)としての日本は、強壮となり男性化していったからである。つまり文化の質的な差異が消去され、ニュートラルなある同一性が、世界を覆ってしまったからである。このニュートラルな文化的な同一性の最中では、自意識が実際の現実と幻想の当為の二者に引き裂かれる三角関係など不可能なのだが、小林秀雄が批評家として歩み始めた時期の文化的な環境の中では、いまだ避けられない宿命としてあった。小林秀雄は、三角関係を抜け出たときに、初めておんなという他者がなにものなのかということに、気付いて、感動さえしている。『惚れた同士』のあいだでは、『いっさいの抽象は許されない、したがって明瞭なことばがいよいよあいまいとなっていよいよ生き生きとしてくる時はない、心から心にただちに通じて道草をきわない時はない。惟うに人が成熟する唯一の場所なのだ。』いささか穿ちすぎた断定がここにはある。以前、、恋愛関係のさ中にこれを読んだ時、わたしにもこういう感慨がおとずれてはっとしたが、後に社会の片隅に押し出されたときに、小林のこの言葉がかなり誇張したものであることがわかった。心から心にただちに通じない社会的な人間関係のなかにも、本当に人が成熟する場所があることを体験的に知ったからだ。つまり、小林秀雄は、神経症的な自意識の悪夢から覚醒した体験をここで内省的に記述しているにすぎなかった。だがここではさらに別のことも受け取るべきだ。それは小林秀雄の自意識が、長谷川泰子との恋愛関係を潜り抜けることによって、自分の無意識野に増大しつつある日本の風土性に溶融したい渇望を、明瞭に自覚したことである。この時小林は、かって自意識にとって他者であった母国の精神風土が、本来的な自己の還流する宿命的な場所であると気付き、そのことを明瞭に自覚することによって、若年の彼を苦しめていた自分自身が自分を監視するという自意識の強力を逃れることができることに思い至った。そしてさらに注目すべきことは、ここでなされた[対自己関係に終始する自意識]vs[無意識野に浮かぶあるがままの自己]=[対自意識である自己]vs[即自という他者]の力関係の逆転のメカニズムである。再び「様々なる意匠」から引いてみよう。『彼の批評の魔力は、彼が批評するとは自覚することであることを明瞭に悟った点に存する。批評の対象が己れであると他人であるとは一つのことであって二つのことではない。批評とはついに己れの夢を懐疑的に語ることではないのか!』火急にアドレッセンス晩期を通過しようとしている初期小林の息遣いが、聞こえてくるかのようだ。ここで〈自覚〉とは自意識が目覚めるということであり、〈己れの夢〉とは後に彼が逃れようとした自意識の悪夢のことである。おそらく長谷川泰子をめぐる中原中也との三角関係に陥った現実体験が、初期小林秀雄にこの〈自覚〉とは逆様の契機を与え、「Xへの手紙」を書いたことが「私小説論」に見られるようなシニカルなイメージを喚起させ、かつまた後の小林の思想的な転回への経路を準備させることになった
   
  7.   回  帰

  小林秀雄の生涯は、何故か生き急いだ人のそれのようだ。そして多分そのように見えるのは、小林秀雄という傑出した才能と資質に〈戦時期〉という我が近代最大の劇的な一幕が用意されていたからだ。やがて、彼の魂が演ずるドラマの舞台は、彼の生きた時代とともに一挙に暗転する。『肉体の動きに則って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きよりはるかに微妙で深淵だから』「当麻」。自己とはあるがままの自分に、自意識という人工的な存在であるもう一人の自分が付随するものだ、というスタティックだが明晰なイメージがここにはある。後は自分のなかの人工的な自分を消去していくことが、残された仕事になるだけなのだ、ここで小林が言いたいことは、おそらくそういうことだ。『ゆめはまさしく破られた』と言うべきである。戦時期という共同体の締め付けが強まる時期が加担したにせよ、「Xへの手紙」から「私小説論」、「ドストエフスキーの生活」を経て「当麻」をはじめとする西行論、実朝論などの日本古典の世界への小林秀雄の傾倒は、もはや必然の過程に入ったと言うしかないだろう。そしておそらくその道は、戦後のライフワーク「本居宣長」まで一直線に続くものだ。戦時期以後、初期小林秀雄の近代批評の行く手は、180度転回して、わが近代モダニズムの陥る定型とでも呼ぶべき故郷に回帰しつつあった。もちろん一方で西欧近代の思想的な文脈から受け取られた自意識という概念は、自国の風土て育まれた生理的な無意識の必然との間でなされる確執を経ない限り、思想的なレベルの問題として扱えない。その意味で小林秀雄は、近代思想の宿命を身をもって生きることで、それまでせいぜい作品の印象を語る高尚な感想文でしかなかった〈文芸批評〉をはじめて一個の思想の水位にまで引き上げた、いまなお畏怖すべき存在となったのである。小林秀雄は、自意識との悪戦苦闘の末、結局あるがままの自分という場所でその思想的な生涯を終えようと企図したように思われる。『ぼくは、星が輝き、雪が消え残った夜道を歩いていた。なぜ、あの夢を破るような笛の音や太鼓(オオカワ)の音が、いつまでも耳に残るのであろうか、夢はまさしく破られたのではあるまいか。白い袖が翻り、金色の冠がきらめき、中将姫は、いまだ目の前を舞っている様子であった。それは快感の持続というようなものとは、なにか全く違ったもののように思われた。あれはいったい何だったのだろうか、何と名付けたらよいのだろう、笛の音といっしょにツッツッと動き出したあの二つの真っ白な足袋は。』
 梅若の能楽堂で万三郎の〈当麻〉をみての帰路、小林の脳裏に浮かんだイメージを、後に再現した批評文「当麻」の冒頭部分である。凍っているが体のどこかに微熱を帯びているような、空虚でしづかな熱狂の気配がこの文章にはみなぎっていて、不思議な魅力を伝えてくる。この時小林の脳裏に浮かんだイメージが、『快感の持続というようなものとは、何か全く違ったもののように思われた』のは、日本の文化的な伝統の水脈に流れ込みつつあった近代的な批評意識のかすかな違和が、この優れた批評家の胸の奥処をよぎったからかもしれなかった。『ぼくは、星を見たり雪を見たりして夜道を歩いた。ああ、去年の雪何処に在りや、いや、いや、そんなところに落ち込んではいけない。ぼくは、再び星を眺め、雪を眺めた。』「当麻」。おそらく成熟期にさしかかった小林秀雄が、才能や時代や生理の必然から恩寵のように与えられた批評の方法は、自意識が批評の対象に自然体で(すなわち半覚醒状態で)向き合うこと、その遭遇の場面の忠実な再現と見なされる記述のことであった。それはまるで、固形状の意識と液状の無意識が互いに浸透しあいながらコロイド様に変容していく性愛の意識が浮かべる表情みたいだ。
 小林秀雄が大きな時代の変革期を潜り抜けるときに、代償のようにつかみとったこの批評の方法こそ、わが国で初めて確信的な態度で説かれ、近代批評の古典的な方法として定着させられたものだ。   
                            (この項 了)


           
                                                    

                                            



                                              


                                                          

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