文学作品の可能性について

⭐ノルウェーの森に分け入って(4)  補遺

   

村上春樹の小説世界の総体において〈ノルウェーの森〉だけが、唯一、〈主人公=ぼく〉を中心とする複数の若い男女それぞれの現実に光があてられたように描かれている。一方〈風の唄を聴け〉〈1973年のピンボール〉〈羊をめぐる冒険〉〈ダンスダンスダンス〉までは、1960年代後半から1970年代にかけての、非現実的な異界を内臓した現実の外界に向かう〈主人公=ぼく〉の流離譚と言えるだろう。いわゆる古今東西の物語の典型的なパターンは、ある男か女かわからないが、貴種、同じことだが卑種が、自分が暮らしていた世界から離れて、もう1つの別世界に紛れ込み、そこで様々な体験をしてまた、もといた自分の現実に帰っていく、ことになっている。竹取物語のかぐや姫も源氏も、ドンキホーテもみんなこの往還の旅程のある定型を逃れられてはいない。この手の物語は、貴(卑)種流離譚と呼ばれているが、振り返って村上春樹の物語の主人公(ぼく)をみると、貴種でも卑種でもない普通の人間、彼が使う言葉で呼べば、中産階級のプチブルの変哲のない1人の若者にすぎないのだ。この極めて凡庸な若者が、物語を動かしていく、ある意味興味深いこの論点については、ここでは触れないが、では〈世界の終わりとハードボイルドワンダーランド〉はどうか、この作品は、上記の二つのパラレルな世界を可視化させて、主人公(の意識)を物語のなかで往還させてみた、と言えるのかもしれない。統一された物語を読みなれた側からすれば、〈世界の終り・・・〉は、明らかに二つに分裂した別世界になっているように見えるが、実はポジとネガとして、構造的に点対称に作られ、作者と作者や私たちをふくむ当時の時代の無意識に統御されていると考えられる。ノルウェーの森に分け入って(2) の中で述べた、当時の若者たちの主要な関心事や世相の概略を少し思い出していただければ、きっとこれら一連の物語群を読む時の助けになるだろう。
 暗い影のある祝祭のような1960年代は、日本社会の物質的な豊かさが私たちにも実感される時代でもあった。それは戦後のスタート時に宿命のように抱えていた負のエネルギーのある意味激しい放出でもあったのだ。そして、それは1970年代、1980年代まで続き1990年前後のバブルで、終わりを告げる。戦後はわが八百万の神に黄昏が到来した時代である。そして奇しくもその黄昏は、同時に資本主義先進国としてアメリカの2番手を走っていた日本社会の黄昏でもあった、と言えるだろう。1990年代以降は、エントロピー増大の法則が示すように、日本を含む欧米の先進社会は、完全な均衡という静かな〈終末=死〉に向かっているようにみえる。日本に限っていえば、2011に東日本大震災で大打撃を受け、現在またCovid19が猛威をふるい、まだ余塵がおさまる時期も迎えていないのである。この先に必要なのは、その場的な鋭い感覚だけでなく、ある一定の時間、闇のなかに身を潜めて何か次の時代の予兆を拾い上げて言葉に翻訳する生成力や収集力とそれらの言語化された予兆の一つ一つを組み上げていく構想力ではないだろうか。
 小説、詩、短歌、俳句など言葉による技芸や表現の本領発揮は、まだまだこれからと言ってよいのである。
             (この項 了)



 

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