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私の祖父はゴッドファーザー。

今年もサンメリーが「敬老の日パン」を予約し始めました。今回はnoteさんから「おじいちゃんおばあちゃんへの手紙」というテーマを提示されたので、せっかくの機会に感謝を込めつつ記録を残したいと思います。上の写真は祖父が最後に住んでいた、千葉の新松戸。彼の思い出はここと鎌倉霊園にとどまっているので。


最近のお若い方は「ゴッドファーザー」という映画をご存知でしょうか。世界の映画史に永遠に名前を残す伝説的なマフィアシネマ。無名のシシリアン・ギャングだったヴィトー・コルレオーネが家族と共に渡米し、絶大な権力を持つマフィアのトップに君臨。「ゴッドファーザー」と呼び怖れられる闇の王になっていく過去編。そしてその息子マイケルが、世界状況に合わせなんとかファミリーを合法化しようとしていく二世代にわたる壮大な物語です。

マーロン・ブランド演じる「ゴッドファーザー」を見返す時、私は一人ずつの子供達とその孫に住める土地と家を残してくれた、父方の祖父を思い出さずにはいられません。


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こうして見ると、先週BSプレミアで見返した「ヒトラー最期の12日間」主演の、ブルーノ・ガンツによく似てるなあ……。「ハイジ」のおんじとも頑固一徹な共通点が。


幼少期の事故で指を失う。


祖父は、幼い頃に精米機で左手の指を切断する事故にあいます。「これでは兵隊さんになれない、鉄砲が握れない」と悲観した親に、頭脳で生き残るべく勉学の道を勧められました。その為に召集令状を受け取ることもなく、戦後は焼け野原になった東京にて司法書士の仕事で地位を確立していきました。

残された写真の中で、常に腕組みをしているのも隠す為なのかもしれません。

数学と語学に巧みだった家系らしく、祖父の弟は海軍少将まで昇進した後に、海軍兵学校にて数学の師範をしていたそうです。祖父の息子である私の父も、建築専門学校にて翻訳と数学教師のバイトを掛け持ちしていたので、おそらく遺伝的な能力なのでしょう。

祖父の名前もなかなか珍しく「福松」と言います。その弟も「伊勢松」なので、……んん?「おそ松さん」……?きっと名付けた人が素晴らしいセンスの持ち主だったのかな?驚くことに、これを書いている最中、偶然古い戸棚の上から昔の戸籍謄本写が出てきたのです!


掘り起こされるファミリーヒストリー。


曽祖父の名前は普通なんだけど……、本籍に「喜代松」という人がいまして、これはもしかしなくても祖父の祖父ですね!

江戸っ子育ちの祖父は、戦前に埼玉県新堀(熊谷のすぐ近く)から「新堀小町」と呼ばれてた祖母とお見合い結婚。長女である伯母、そして年子の長男である父が生まれます。その後には叔父二人、叔母が一人。東京大空襲にて小石川の家を全焼され、妻の実家を頼って妻子を熊谷市に疎開させて、自分は都内にて残り仕事を続けたようです。

成人してから知ったのですが祖父は昔から美女好きで、結構お若い頃は色遊びがお盛んだったそう。長女である伯母がなかなか妊娠しないのを「自分が過去に遊んでいたからでは」と、後悔していたようなんですね。孫の私達は、遊んで騒ぐと怒鳴られる体験しかしていないので、そういう繊細な一面があったとは全く知りませんでした。母曰く「アンタ達のこと、うるせえ!って怒鳴るけどね、あれ楽しくて嬉しいんだよ」……ツンデレか!!!


生涯、一緒にいる相手だからこそ顔は大切。


祖母が綺麗な人だったので、すぐ結婚したらしい祖父の言葉に「生涯、一緒にいる相手だからこそ顔は大切」というものがありまして。嫁入りした母から聞いた台詞なのですが確かにこれ、改めて言葉にされると「まさにその通り」とも感じるんですよね。ビジュアルって判断材料の大事なアイテムだよなあと。

今、私が住んでいる家は、たまたま遠い縁戚が戦前から住んでいた町に建っています。ここは祖父が「誰かしら知り合いが近くにいる土地が良い」と戦後に選んだ場所。父が大学院を卒業し母と結婚したのを節目に、祖父は千葉県新松戸に新しく土地を購入し、庭が豪華な平屋に終の住処構えます。また、末の叔母が結婚したのでその新居を隣に建築。この時は、ずっと上手く娘夫婦と同居していかれると思っていたんだよなあ……。


芸術と日本犬が大好き。


司法書士としての祖父はかなりのやり手で、今でも世界的に知られる製薬会社や食品メーカーの上層部と親密に交友があったようです。その中でも特に、国内有名楽器との関係は良好だったようで、私達孫には全員、ピアノを贈っています。自分がベートーベンを大尊敬していたからかもしれません。


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祖父には子育てや孫の育成に強い信念があったようで、父や伯母は小さい頃からディズニーの映画によく連れられた思い出話を話してくれました。戦争で家を焼かれ疎開先でいじめられた事、辛い体験をしたのは日本国家が国民を勝つ見込みのない戦争に巻き込んだから。その教えは徹底的に父をはじめ子供達に教え込んだようです。

現在は80歳になる伯母も、祖父からの教えに従っていまだに海外ドラマや映画、そして国内のアクション漫画を愛し続けています。きっと祖父は「ハイカラ」に成長して欲しかったのではないかな。また、明治生まれにしては珍しく「女性も率先して、高等教育を受けるべし」という先進的な思考を持っていました。嫁入りした私の母が大卒で教師をしていた事を、ご近所さんににはかなり自慢していたみたいです。

そして、仕事上でも懇意にしていた日本犬の保護団体から秋田犬と北海道犬を譲り受けて、可愛がっていました。子供達も孫もみんな犬と猫などの飼育経験が長いのも三世代に渡る遺伝かもしれません。


「俺が銭形、お前が八五郎」


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こちらが、祖父や父に愛されていた北海道犬の八五郎。品評会で何度も入賞した血統書付き。八五郎の前にも「小政」という巨大な純血秋田犬がいたのですが、心臓疾患を持っていたらしく早く亡くなったそうなんですね。

その名前の由来は、「俺が銭形平次で、お前は子分の八五郎!」という祖父の見事なセンスからなんですよ。秋田犬の時も「俺が大政、お前が小政!」本当にハイカラなんですよね、粋というか。

残念ながら、八五郎は車に轢かれて私と対面する事ができなかったんですが、死後何十年も語り草にされている愛されていた犬でした。会っていない私でも、ハチのエピソードはかなり母から聞かされているし、写真もたくさん残っているし幸せな子だなあと。

顧客さんの結婚式やパーティーで、「海老の尻尾は肉を多めに残してね、うちのハチに持って行くから」と言っていたそうです。酒宴では下戸なのでほぼアルコールは口にせず、仕事上の付き合いに備えて飲酒の練習をしていたみたい。


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なかなか見る機会が無いと思うので、昭和46年の北海道犬品評会の様子です。父の字なので、写真好きとしてアルバムに残していたのでしょう。真ん中の藤色の着物姿が、私の母の母……つまり母方の祖母。うちの父方一家は、母の家ととても仲良しでした。

何か受け取っている帽子の青年が編集業をしていた真ん中の叔父、その右隣の黄土色セーターが末の叔父。そして藤色着物のすぐ後ろのベレー帽が祖父です。あ、ハチの尻尾も見えるし、ターバンを巻いた伯母もその隣にメガネの母もいるなあ。

祖父の後ろに、口紅を塗り直している長身の女性がいるの分かるかな?これが私の母の末妹です。文化服装学院の私の先輩でもある叔母ですが、銀座にマヌカン勤務していたこの通りの美貌なので、すっかり良い気分の祖父が「あんた、八五郎を連れてレールを回んなさい」と勧めたそうなんです。そうしたら周囲のオジサン達が「お姉さん!ダメダメ!みんなあんたばっかり見て誰も犬を見てないよ!」って笑われた伝説が。


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母方の祖母と意気投合していた祖父。


こちら一見して夫婦とその娘達みたいな写真ですけど、右端が嫁入りした私の母、真ん中が祖母、ピンク着物が中間子の叔母、そしてデザイナーだった末の叔母です。

祖父や父や叔父は、本当に母の三姉妹や祖母と仲良しでした。おそらく祖父の奥さん……「あいさん」が、胃がんで早くに亡くなっていて、家庭内に母性を持つ女性が不在だったから。私も伯母達も父方祖母を敬意を込めて「あいさん」と呼ぶんですけど、当時は痛み止めも余り効かず、末期にはかなり苦しんだようです。父の姉である伯母が、祖父の一番の理解者でしたが結婚して家を離れたし、そして隣の家同士で同居していた二人目の実娘と祖父は上手くいっていませんでした。


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そんな寂しかった父の家に、私の母が母子家庭で明るくパワフルに生きてきた空気を持ち込んだんですね。母の家は新小岩にあった今にも壊れそうな狭い平家で、娘達が中学生になるまではトイレもなく、お隣に借りていました。想像できない貧しさですが、昭和30年代当時の東京下町には珍しくない環境なんですよ。

母も妹達も必死に勉強し奨学金を得て、それぞれ早稲田の英文、千葉大の看護科、そして文化服装学院に。私の母はとにかく勉学しか知らない優等生なので、結婚する気持ちは全然持っていませんでした。でも親友から「貴女は実家もないし、妹さん達の為にも持ち家がある男性と結婚した方がいい」と勧められたお見合い。


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物心つく前に酒乱だった実父と離れて育った母は、厳格な年上男性と話した経験がほとんどありませんでした。初めて祖父に引き合わされた時は「鬼瓦みたいな顔のお爺ちゃんだから、怖かったのよ……」だったそう。

「でもねお爺ちゃんに、『お前の家は長屋かい?』って聞かれて。ボロ屋だからとても恥ずかしくて、一応『はい』って答えたんだけど、それ以上なんにも言われなかった。多分貧乏さを察してくれたのね。それで結婚してみようかなって思えた」

「お爺ちゃんが、私のお母さんとアンタのお雛様を買いに浅草橋に行ったのね。帰ってきてから私に『お袋さん、シャツ開いて腹巻の中から万札を十枚出してさ、俺驚いたよ』って笑ってた」


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子供達との複雑な確執。


私の父は早稲田学院から大学の建築科を出て一級免許を取得し、それから翻訳や数学教師のバイトで大学院学費を稼ぎました。「あいつは大学院を出たからって威張りやがって」と、二人の間には確執があり、また長男である父が祖父の司法書士事務所を継がなかったので、結婚式や新婚旅行費用も祖父には頼れず。なので、私が生まれた頃に父の不在によく電話をかけて「生活は出来ているのか、食べられてるのか」と母に聞き込みしていたそうです。

隣同士で半同居していた叔母とも、祖父は近しいはずなのに疎遠で。私は一人っ子なので分からないのですが、きっと同じ姉妹兄弟でも両親との相性があるんでしょう。不仲な娘との関係を、祖父はこう残しています。

「富士は遠く眺めるからこそ、美しい」



その後に叔母は夫子と祖父の家から少し離れて新居を持ち、祖父の司法書士事務所を継いだ末の叔父一家が隣で賑やかに暮らし始めました。末の叔父はとても大らかで優しく、農業や牧歌的な生活を好む人で、またエンタメ視聴を率先する父方の男衆の中でも最高に漫画やアニメを愛していました。「スラムダンク」や「BANANA FISH」、「頭文字D」がお気に入りで、新車のRX-7 FDを買ったくらい。笑い声の絶えない新松戸には、私もまるで実子の如くよく泊まりこんでいました。

末叔父一家が三人の子持ちになって、祖父はとても賑やかな環境の中で亡くなりました。私が小学校3年の時かな……。肺がんで近くの病院にて息を引き取ったんですが、子供達もそれぞれに家庭を持ったしきっと心残りは無かったと思います。

祖父は、長男の父に都内の土地と家を、叔父達には千葉に土地と家を、伯母達にはかなりの持参金を残しました。五人にあれだけの財産を手渡せる父親という存在は、令和の今ではなかなか存在しないのではないかな。父も叔父も誰も祖父を越えられなかったし、私も足元に及びません。


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日々を暮らせる土地と、流れる血、贈り物への感謝。


これは、祖父と私が一緒に並んでいる唯一の写真です。末叔父の結婚式で、さすがの父が気を利かせて残してくれたんだなあ。反対側のお隣が元海軍少将で数学教師の伊勢松大叔父さん。う〜ん、カッコいい、素敵……!

敬老の日をきっかけに、今までずっと溜めてきた祖父への感謝を具現化したいと五日間かけて書き終えてみました。会った回数も少なく、鎌倉のお墓に入ってからお参りした回数の方が多い人です。でも私もアラハンに近づいたし両親も亡くなり、伯母や叔父達もいつ向こうに旅立つか分からないこの感染時代にこそ、語り落としておくべきかと思ったんですね。

従姉弟達が創作などに全く興味を持たない人なので、正直、noteに全記載していても身内の目に留まることはない安心感もあります。よくある一家の盛衰記として誰かしらの目に気まぐれに止まれば良いなと。でも私が子供の頃からある程度の文章力を持っていて、ネットという文明の力に精通している興味や関心は、祖父から父、そして三代目の私に引き継がれた一種の才能だと感じざるを得ません。

父を海外の作品に触れさせ育て、平等思考の大学教育をさせてくれた祖父がいたからこそ私は楽しく小説や漫画、アニメの世界に没頭する人生を送れたし、愛する父ともたくさんエンタメで楽しい記憶を残せている。父は祖父と愛憎があるのであんまり認めたくないかもだけど、孫の私は三人にずっと強く紡がれる遺伝子を信じています。


長い昔話をここまで読んで下さり、本当にありがとうございます。学生時代から親友のヤマザキさんには「はとちゃんの家族って、まるで漫画だよね。作品にすればいいのに」と言われ続けていて。恥ずかしさと多忙さで何十年も形に出来なかったけど、荒削りでもなんとか組み立ててみました。

私はこれからも死ぬまで祖父が残したこの家にいるし、自分の部屋で息を引き取りたいなあと願っています。


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我が家の「ゴッドファーザー」、一族の栄華ストーリーもこれにておしまい。


祖父と仲良しだった、母方の祖母についてはこちらから。



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