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ひととせ

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2021年9月から2022年8月までの記録。
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記事一覧

繭

 この頃、日暮れる時刻が早まったり夜風がずいぶん涼しくなったりして、秋の気配を感じはじめている。ただその一方で、昼間の日差しはまた道を焼き、夏のしぶとさを肌が覚える。だからか、夏季からずっと間延びした時間を生きているような、同じ場所にえんえんと停滞しているような、変な気持ちが凝っている。

 大学を卒業して、いまだに実家で暮らしている。親に甘えてぐうたらしているのです。七月から役所に勤めはじめたも

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土留色の獣

 泳げないのに海に招かれている。本当は浅瀬までで精一杯なのに、僕の足はもっと深みを知ろうと欲張りはじめる。水が僕の呼吸を支配する。どうやら、久しぶりに恋をしたようだ。

 今年の七月から役所に勤めるようになった。毎朝決まった時間に目覚めて、夜は翌日に備えて早めに布団に入る。生活のリズムが整ったのに合わせ、浮き沈みの激しかった僕の心も多少落ち着いてきた。薬に頼ることもなくなった。それでも、慣れない環

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貝の火

貝の火

 自動ドアが開くと、こちらに向かってくる秋の風。空はうっすらと翳りはじめており、遠くの方で橙色が燃えている。霧のようにぼんやりとした空気を縫って帰る。赤信号で停止したときにふと頬を触ってみると、皮脂で汚れているのに気がついた。

 帰ってきてから眠りにつくまで、ほとんど頭を使うことがない。労働で疲れた身体が脳に抑制を与えているのかもしれない。感情の起伏もさほど起こらず、静かな毎日が間延びしてつづい

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蟹を食べたい

蟹を食べたい

 今年もなんとか終わりそう。最近は寒さが厳しくて、朝早くに目ざめても足の指先をあたためていたくて、必ず二度寝してしまう。風の冷たさで頭が痛くなる。自転車のハンドルを握る指の感覚が途切れそうになる。それでも、なんとか年を越せそうだから安心です。お元気ですか。

 この頃は、カネコアヤノさんのことばかり考えている。来年の2月にあるライブに当選したので、予習とばかりにカネコアヤノさんの曲を集中して聴いて

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僕とBL

 書店に行くと、「たまたまそこを通りがかっただけで特に興味はない」という仕草でBL(ボーイズラブ)のコーナーをさらっと見る。もっと普通にじろじろ物色したい。しかし他の客の視線がいやに気になって仕方がない。結局、風のようにそこを離れる。

 僕は男性で、BLは当事者性があったりなかったりする不思議なジャンルなのだけど、読み手としてはすごく好きだ。

 ただ、BLという文化は女性漫画の中から起こったも

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椿

 有給休暇をとって、いまコメダ珈琲店でこの文章を考えている。まだゆとりのある正午過ぎ、自分がこうしてのびのびと寛いでいる一方で、ほかの同僚は働いているのだと考えると、妙に気持ちがいい。

 大学を卒業して、ほぼ一年が経つ。変わったことはいろいろあるけれど、その一つに母との買い物が思い浮かぶ。それまでは気恥ずかしくて、二人で外に出る機会を作ろうとしてこなかった。ただ最近は、二日に一回ぐらいの頻度で近

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明るい瞳

明るい瞳

 その川べりには、青くて仄暗い空気が満ちていた。人の気配はない。ゆるやかな川の流れの、さらさらとした水音が僕の耳たぶを揺らしている。薄闇の中を歩いているので、ふと水を踏み抜いて足首まで濡れてしまうけれど、そんなことは気にならない。ただ、この川の向こう岸へ。それだけをぼんやりと考えながら、何度も同じ景色を漂っている。

 僕がまだ仕事を探していた頃、眠りにつくことはとてもむつかしかった。静寂が不安を

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花曇

花曇

 春の到来を知る。ぬるい風、窓の外の山の笑い。いくつになってもこの季節は、優しいふりをしながら僕の心を乱そうとする。たとえば、昔の歌を聞き返すとその当時の嫌な記憶が思い出されるように、しばらく忘れていた感情がよみがえってくる。

 蕾として顔を出したのは不安感だ。霞のようにぼんやりとしているが、僕には見覚えがある。友達のいない新しいクラスや、知らない町での一人暮らし。春の空気は別れの気配で満ちてい

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pale blue

pale blue

 助手席に座りながら、左側の暗闇をぼんやり眺めていた。もっと早い時刻であれば、窓辺から海が見えたのだろうが、いまは黒の濃淡が平面に浮かんでいるだけだ。

 僕はずっと、心の内にある思いを口にしたかった。しかし、ずっと喉のあたりでとどまって、大事な部分が声にならないから、ぎこちなく沈黙してしまう。気まずさでつい笑いが漏れる。運転している相手は、僕がたどたどしく話す内容からだんだん察しはじめたのだろう

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ひとりごと

 転職のことを何度も考える。

 僕はいま役所で非常勤職員として働いている。大学を卒業した年に雇われたので、新卒採用してくれる企業が見つかるまでの「仮住まい」ぐらいの気持ちでいた。しかし、なんとなく居心地のよさにかこつけて二年目に突入してしまったのだけど、最近またちゃんと考えないと…と背筋を伸ばしている。

 周りの同僚(僕のいる部署はほとんどが女性で、大体の人が母親の年齢とあまり変わらない)から

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魚影の群れ

魚影の群れ

 暮れかかる町を車は泳いでいた。七時半をすぎていても、外はまだ明るさを残しているし、冷房の風を押しのけて熱気が肌に張りついてくる。あついなあと呟きながら、僕は助手席にからだを預け、平日の疲れを少し眠らせる。

 ふと、この車が魚のように感じられた。瞳は二つ揃っている。まっすぐ前を捉える右眼と、よそ見ばかりする左眼。翳りゆく空気をかき分けて、いろんな魚たちが巣へと戻っていく。その営みを窓から眺めてみ

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線

 いつも僕は、必要に駆られないと新しい環境に進もうとしない。もともと主体性というのが希薄だし、知らない場所に適応することの難しさがわかっているから、履き古した靴でずっと同じところを行き来している。

 大学三回生の頃、周りが少しずつ就職活動を意識し始めた。自分も一応、夏休みにインターンシップに参加してみたけれど、大した経験値にはならなかった。大学の学部に所属している安心感がある以上、就職活動に真剣

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