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 いつも僕は、必要に駆られないと新しい環境に進もうとしない。もともと主体性というのが希薄だし、知らない場所に適応することの難しさがわかっているから、履き古した靴でずっと同じところを行き来している。

 大学三回生の頃、周りが少しずつ就職活動を意識し始めた。自分も一応、夏休みにインターンシップに参加してみたけれど、大した経験値にはならなかった。大学の学部に所属している安心感がある以上、就職活動に真剣に向き合うことができなかったのだ。同じゼミの学生が進路を決めていく中で、自分だけが浮ついていた。

 ただ、なんとなく自分の中に、「大学を卒業したら企業に就職しなければならない」という掟のようなものがあり、それがぼんやりとした焦燥感を与えた。まっすぐに線が伸びていて、そこから逸脱すれば周りから笑われ、孤立してしまうような気がした。親には申し訳ないし、なにより自分自身が情けない。そうした不安感を殺すため、周りと同じように就職活動に取り組んだ方がいいと、頭では理解していた。

 結局、卒業するまで内定は貰えなかった。いまは役所で非正規社員として働いている。つまり、大学という温室を出て、はじめて動きだせたわけだ。自分には接客は向いていないだろうと思っていたが、ほとんど毎日、初めて会うお客さんと会話し、手続きを行なっている。いままでは自分と同じ世代の人と喋ってばかりだったが、自分より年上の人と関わる機会も増えた。ずっと、じんわり緊張している。

 いまの僕は、過去の自分が期待していた将来の姿には、寄り添えていないと思う。まっすぐに描くはずだった線は大きくぶれて、蒸気のようにゆらゆらと泳いでいる。ただ、僕にはわからない。その線の揺らぎはそれほど悪いものだろうか。一度レールから逸脱してしまえば、幸せに暮らすことは二度と叶わないのだろうか。

 学生時代、僕は働くことを斜めに見ていた。今はもう、この頃の自分には戻れない。誰かの役に立てることは素直に気持ちいいし、それでお給料をもらえるのはありがたいことだと思う(もっと時給は上がってほしい)。大学に入学したときまで時間を遡り、やり直すことはもうできない。新しく手に入れた靴で、歩きつづけるしかないのだ。どんな線でも、行き着く先は誰も彼も同じなのだから、いくらでも上がったり下がったりしてみようと思う。