見出し画像

明るい瞳

 その川べりには、青くて仄暗い空気が満ちていた。人の気配はない。ゆるやかな川の流れの、さらさらとした水音が僕の耳たぶを揺らしている。薄闇の中を歩いているので、ふと水を踏み抜いて足首まで濡れてしまうけれど、そんなことは気にならない。ただ、この川の向こう岸へ。それだけをぼんやりと考えながら、何度も同じ景色を漂っている。

 僕がまだ仕事を探していた頃、眠りにつくことはとてもむつかしかった。静寂が不安を育てるので、枕元にはいつもスマホが必要だったし、思考がネガティブな方向へ流れていかないように、なんでもない空想で頭の中をいっぱいにしなくてはいけなかった。それでも、眠りに落ちることはできない。夜から朝への空の移ろいを何度見たのだろう。徒労感と虚しさの中、散歩でもしようと外に出てみると、めざめたばかりの町で自分だけが浮いている心地がした。やっと布団の中で安心できたのは午前10時頃。逃れられなくなっていた。

 仕事に就いていないということは、孤独そのものだった。社会に帰属している実感は色あせ、どこにいても世間から爪弾きにあっているような気がした。所属していたゼミで進路が決まらなかったのは自分だけだった。卒業間近、いろんな人に会うたびに卒業後のことを訊かれ、何も決まっていないと言うと妙に気を遣われた。一度でも劣等感を覚えると、余計に自分を孤独な方へ追い込もうとしてしまい、ここから消え去りたいと強く願うようになった。

 大学を卒業してから精神科に行き、不安と不眠を和らげる薬を処方してもらった。多少の効果はあって不眠の問題は解消されたが、いざ仕事のことを考えると、希死念慮が熊のように忍び寄ってきた。いままで、死にたいと思うのはいつも夜眠ろうとするときだったが、ついには昼間にも考えるようになった。グーグルの検索履歴は自殺の方法が並んだ。部屋でひとり、タオルを首に巻いてぎゅっと力を込め、苦しくなるまで続けてみた(ちょっとした快感があった)。川の向こう岸に辿り着こうとしていたある日、役所での非常勤職員としての仕事が決まった。

 働きはじめてから、精神科には行っていないし、薬に頼ることもなくなった。あのぼんやりとした孤独感も和らいだ。自分でもバカらしいと思うほど、あっさりとした変化だった。仕事をし、同僚との関係性を築き、自分の稼いだお金で好きなものを買う。それらが、いまの僕を社会に繋ぎ止めている。