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【完全無料】死にたいとか、思う必要がない【最悪の結果でも何の問題もない】


こんにちは。

今回のテーマは、『死にたいとか、思う必要がない』について解説します。


こんなテーマで、普段使っている「解説」という表現はシックリいきません。ですから、「解説」の替わりに「私の考えを伝えます」と読み替えて下さい。



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■若い人の多くが、将来に希望が持てないと言います。


ときどき「死にたい」とか「思いつめる」といった言葉や活字を見ることがあります。社会の一員である以上、ほとんどの場合は、その若い人の責任でありません。


だから、死にたいとかなどと思いつめないで欲しい。仮に、自分の責任で招いた結果に対してでも、死に値することが存在するはずがありません。


若い人の将来に期待が持てないという厭世観は、作られた社会構造や経済的な問題が多くを占めていると考えます。どんなことに対しても「世間が悪い」とまでは言いません。ただ、原因や動機に対する結果に落胆することはありません。


少なくとも、他人と比較することもなければ、自分の存在を否定することもありません。他者の存在を否定できるような合理的な説明は、そもそも存在するはずがありません。


■チャンスは一度きりではない


チャンスは一度きりではありません。


「よくチャンスを逃すな」といった言葉を耳にします。ただ、誰もこれがチャンスだとは教えません。


チャンスは求めれば巡ってきます。カウントすれば、ピンチの数と同数です。


なぜそんなことが言えるのか。


チャンスの扉は、ピンチで落ち込んだとき、その隣の扉にあると考えるべきです。
つまり変化の扉です。


ピンチで落ち込む経験をしないと、人は自分を見つめ直すことはしません。だから、それまでが順調だと認識しているうちは、変化点は永遠にやってこないものだからです。


その根本的な原因は、人間は生理的に変化を求めず現状維持を好むからです。


この解釈が正しいのであれば、失敗の数だけ変化のキッカケがあり、とりもなおさずチャンスだということです。


そのチャンスが、自分にとって有効か、満足感があるか、幸福と感じる状況を作り出せるか。それは本人のかじ取り次第です。


わざと「かじ取り次第」といった軽い表現にしました。「こうあって欲しい方向に対しての行動次第」、という方が分かりやすいのかもしれません。





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■私が苦しんだ時に考えたこと


私はそこそこの年齢になるまでに、7回死にかけた記憶があります。

自分ではどうにもならない事・・・、たぶん誰にもあると思います。

私の場合、そのたびにたどり着いた回答は、以下のようなものでした。




私が苦しんだ時に考えたこと


「自分がこたえを出さなくても、時間がこたえを連れてくる。」

「悩み尽くしても、誰からも命を差し出せとは言われていない。」

「ヒトは自分が思うほど、自分に関心をもっていない。だから、考えるだけアホらしい。」

「悩んでいる自分がいる限り、人から非難を浴びている限り、自分が存在している・・・、そのはずだ。」



それで、顛末はどうなったかというと、必ずどうにかなりました。

どんなことでも、必ずどうにかなるものです。

あたりまえの話です。

結果はさておきです。

悪い結果でも問題ありません。それ以上悪いことがないと気づいた瞬間から、「少しまだいける」とほのかな希望が芽生えるものだと思います。自分が意識しなくても、脳がそのように働いてくれます。自分が考える以上に、ヒトの身体はたくましいものです。


そう思いませんか?


悩んでいても、おなかは減りますから。

身体の維持のために、絶えず活性しています。

考える自分はどこにあるかというと、脳細胞です
脳は、胃腸とつながっています。つまり身体は一体です。

脳が疲れている間も、その他のすべての細胞がバックアップしてくれているのです。







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■情熱が途切れ、何かをするときの熱量が乏しくなることは誰でも経験します。

少しだけ意識する方が良いことがあります。
それは自分から人を遮断しないようにする事です。


「本質的には人間は孤独な生き物」といった、哲学的なことを考え始めるのも人間です。


今は孤独になりたいとか、そういった感情を持つことは仕方がありません。しかしその感情も、あまり長く続かないようにしたいものです。


孤独の精神が悪いのではありません。自分から「積極的に孤立」していく必要はないと思うのです。感情の整理は必要です。そのための孤独であれば意味があるのかもしれません。


孤独を愛するなどと自分の中で宣言しない方が良いと思います。近所の誰かでも、昨日今日に会話を交わした人でも、聞いてくれそうな対象さえ視覚に入れば良い効果があるはずです。


ひとりになりたいとか、孤独を愛する境地は、誰でも何度となくある気がします。


本当に孤独になったつもりでも、本質的には社会がそれを許しません。良い意味での許さないです。


お店でモノを買えば、礼を言ってくれます。
電車やバスでは切符を見せろと言われます。
信号を無視して渡れば交通違反として扱われます。
人に暴言を吐けば、それなりの代償を払うことになります。


つまり、どれだけ孤独になりたくても、そのようにはならないのです。社会との関わりは、切り離しようがありません。


それならいっそうのこと、気持ちを切り替えて、人と接することも悪くない程度の、気楽な気持ちに置き換えることが出来ないでしょうか。


「少しぐらい人に迷惑をかけてでも、生き延びろ」と思います。









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■引用の詩


以下はマリーローランサン(鎮静剤)です。
女も男も同じです。そう思って引用します。



退屈な女より もっと哀れなのは
悲しい女です。

悲しい女より もっと哀れなのは
不幸な女です。

不幸な女より もっと哀れなのは
病気の女です。

病気の女より もっと哀れなのは
捨てられた女です。

捨てられた女より もっと哀れなのは
よるべない女です。

よるべない女より もっと哀れなのは
追われた女です。

追われた女より もっと哀れなのは
死んだ女です。

死んだ女より もっと哀れなのは
忘れられた女です。

何かするたびに、必ず誰かが思い出してくれます。
何もしなくても、社会が関わりを持ちたがります。


普段の株式投資の記事でも、解説する側として強くなりましたが、そうなるまでにはいろいろありました。記事の冒頭に、私が「7回死にかけた」というのは、株で大損した回数ではありません。


株では、自分が買った低位株が上場廃止になり、ストップ安で売るに売れず値つかづずは、何度も経験しました。ただ、株式投資でのその程度の出来事では、7回死にかけたうちの1回にもカウントしません。


泣けるほど厳しい状態になると、笑ってしまいます。
強烈に脛を打ち付けると、笑いながら痛がるのとよく似ています。





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■死にたいと思ったときは


死にたいとか思ったときは、そのように思っている自分を、別のもう一人の自分が見ています。

もうすでに完全には孤独でありません。
自分がそれを認めているようなものです。


さらに、「積極的な孤立」から解放されるのであれば、ほんの少しのエネルギーと工夫さえあれ実現可能です。
そのためには、視覚に誰かがいれば便利だと思います。


通いの店の顔見知りでも良いと思います。
過疎地なら生き物でも良いと思います。
もう一人の自分以外の追加注文です。



自分+もう1人の自分+顔見知り=3人

すでに孤独ではない。

注釈:顔見知りの定義は生物なら何でも良い。
   (生物=動物及び植物)




本文は以上です。


最後まで読んでいただきありがとうございました。
                         筆者



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