末期癌で介護をうけていた父は夢のなかで「立てるよ」と言った

13年前に亡くなった父と再会した。夢の中で。

小腸の末期癌にはじまり、肺や胃に転移した。せめてもの救いのように眠るような最期だった。

父は木製のなにかに腰掛けていた。

でも、ここはどこかはわからない。寂しくはなく、明るく、暖かい場所であるとは理解できる。腰掛けている彼の姿は、現実と間違えるくらいリアルだった。

サテン生地のブラウンのスーツに、紺のシャツを着ている。私はその姿を彼の頭上から見ている。立った形で父を見下ろしているのだろう、と思った。

よそよそしく、いくつか会話をした。私は人見知りの子供のようで、初対面の大人と話すくらい緊張していた。自分の父であるのに、久しぶりに再開した感覚まで生々しい。

14歳で父が亡くなったので、今から10年経っているんだ。それなら仕方ない......と考えたが、その計算は間違っている。今は27歳だ。

父は「仕事は何をしているのか？」と尋ねてきた。「WordPressを立ちあげて、ブログを書いている」と、夢の中で現実にそった返事をする。

父は頑固で傲慢な人だったから否定されるだろうと思いきや、素直に「あぁ、それはいいね」と返してきた。優しくゆっくり息を吐くような言い方だった。

病に伏せていた父とは違い、顔はこけておらず、むしろ肉がついて丸々としていた。肌にハリもあった。健康な大人そのものの顔つきだった。身体も元気だった頃の体格に近く、筋肉質で大きかった。夢は月日の経過をあらわしたいのか、彼の頬はたるみが増し、目尻のシワや頬のシミも増えていた。喫煙者特有の浅黒い肌色も再現していた。

彼と話すことはないと感じた私は、おもむろに立ち去ろうとした。でも、これが最後になる気がした。夢の中でも、もう会わない気がした。最後に何か聞きたいことを聞いておこうと考えた末に出てきたのが「立てるの？」だった。

すると、父は明るく「立てるよ」と言った。私に向かって手招きをする。自分の膝を叩いて「ここに座れ」の合図をする。座る。座った状態から私をヒョイっと抱きあげ、立ちあがった。私の身体はグッと持ちあがり、上体が不安定になった。グラつく感覚までリアルに再現された。父の肩を掴んだ。

もう10キロやそこらの子供ではない。55キロもある。重さを感じていないみたいに、力強く、軽々しく立ってみせたのだ。

「立てるよ」の言葉がどれだけ欲しかったか。欲しかったから、無意識に夢に出てきたのかもしれない。

彼は、病と闘うなかでいっさい見せなかった顔をしている。自信と、生気と、喜びが混ざった微笑みがそこにはあった———。

父が末期癌で長期入院をしているとき。在宅介護をしているとき。ベッドから立ちあがれず、看護師に介助をされている光景を何度もみた。私の体重とさほど変わらないのに、その重さを支える筋肉すら残されていなかった。

私も介助の一員に加わったこともあった。ベットに腰掛けた父と、向かい合わせで抱きあう。両脇に腕を入れる。1、2、3の合図でベッドサイドにある車椅子に移す。当時14歳だった私は当然、介護の知識などない。見よう見まねだった。上手くできずに父を苛立たせたこともあった。

父と最後に抱擁をしたのは、ずっと幼い頃。まだ10歳くらいだっただろうか。久しぶりの抱擁が介護だなんて。それに加えて、思春期の積み重なった”わだかまり”もある。”わだかまり”が残ったまま、介護をするために抱擁をする。さらに”わだかまり”を強めた。

他人に抱えられている父の姿をみる。複雑とも違う、悲しみとも違う、言葉ではうまく表せられない感情が湧いた。その感情は心に灯った小さな火で、風が吹いても水をかけてもいつまでも灯りつづけ、ジリジリと私をあぶった。

強く、たくましかった父の姿はない。きっとこの感覚は、昔は強く元気だった親が、弱々しく老いていく背中をゆっくりと眺めているのと似ている。時の流れには神さえも逆らえない。親の老いも止められない。そして自分の老いも、親の死も、自分の死も。

介助されなれば立てなくなった。父本人が1番、複雑な感情を抱いていたに違いない。まだ50歳なのに、立てなくなる事実に。ついこの間まで人間としてできていた当たり前の行動が、できなくなる事実に。

言葉としてハッキリ言い表したことはなかったが、態度や言動に苛立ちや怒りが混じっていることから、そうなのだろうと推測した。

そんなことがあった。なのに目の前に、私を軽々しく持ちあげるほどたくましい父がいる。声をあげながらわんわん泣いた。父の腕の中で。その泣き方は、まるで3歳児だった。これまで厳重に閉じていた心の蓋が開き、自分の意思では止められない何かが涙とともに溢れてきた。

父と私のまわりを囲う世界は、雲ひとつない晴天だった。日が射していた。泣きながら太陽の光がまぶしい、と思った。暖かくて心地よいとも感じた。そして父と私の周りには、誰かがいて、泣いている私を見守っているような気もした。でも、お構いなしにわんわん泣いた。

見上げると、父は私をみていた。泣きじゃくる小さい子供を見守るように。優しさに満ちていながら、どこか悲しみも混ざった眼差しだった。そして父は、腕の中にいる私に聞こえるくらいの大きさで「ごめんな」と言った。

低い父の声を久しぶりに聞いた。同時に、私は謝罪の意味を理解した。

目を開けると、暗かった。でも真っ暗な暗闇ではなく、薄暗い。カーテンの隙間から夜明け前のやわい光が入りこみ、わずかに室内を照らしていた。朝5時くらいなのだろうと想像した。

掛け布団にくるまりながら、夢の中の出来事を思い出す。「立てるよ」の父の言葉に、久しぶりにみた生々とした表情。これからも自分の人生は続いていくのだと、確信しているように見えた。続いて欲しかった。そして父の謝罪。

私は無言で受けいれ、ふたたび眠りに落ちた。

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