見出し画像

連続起業家のジェットコースター的プロフィール(ダイジェスト版)

いつもnoteを読んでいただき、ありがとうございます。

私は、18歳で起業し、30社の起業と経営を経験してきました。
そんな私の生まれてから現在に至るまでのダイジェストを紹介させていただきます。

自然で育った幼少→バンドの学生時代→そして東京へ脱出

田畑の広がる田園、公務員の父と農家生まれの母の長男として誕生。
幼少期は、外ではザリガニ釣り、家ではプラレールとダイヤブロック(レゴの日本版)、そして三歳からの習い事は、ピアノと絵画。
音楽だけはその後ずっと続くことになり、14歳でバンドのステージに立ち、ブラバンに夢中となり、音楽を仕事にしたいと大学を受けるも失敗。
デビューしたてのドリカムのコンサートの後、音響エンジニアの姿を見て、東京脱出を試みたところ、3月30日合格発表で3人だけの枠に残り、4月1日に上京。

18歳で起業→20歳過ぎで年収4桁

専門学校に行きながら知り合いゼロの東京で一人暮らしをスタート。シンセサイザーの存在を知り、音楽を作りたいと秋葉原に。所持品をすべて売り叩いて、白黒9インチモニターのMacintosh SE/30をゲット。
学校では友達がバンドに夢中になっている中、先生と仲良くなり、当時発売されたばかりの「FMタウンズ用CD-ROM教材の楽譜をデータでつくる」というリットーミュージックのお仕事をいただく。たしか全部で5万円くらい。
その後、不動産バブルが崩壊し、就職先が一気になくなり、音楽事務所に拾われ、バンドのローディーやスタジオの受付バイトで暮らす。
20歳の頃、カラオケが通信に変わる時代が到来。カセットテープを渡され、耳で完コピをすると1曲10万円という仕事に釣られる。(1ヶ月で1曲で月給10万円、1日でやれば日給10万円)。20歳すぎの年収が4桁に到達。

インターネットが始まった→音楽が届けられる!

その後、ヤマハ楽器の浜松本社で、シンセサイザーの開発に携わることに。ある日、エンジニアの人に呼ばれてパソコンに映る画面を見せてくれたのが世界初のブラウザー。クリックして1時間のダウンロードで、ニューヨークのジャズクラブの演奏が再生されたことに衝撃が走る。これは、実質的なインターネットの始まり
当時の自分の曲をレコード会社に売り込んでいたが、全く相手にされずすべて撃沈。
「これなら、レコード会社に頼らなくても、世界に音楽が届けられるようになるかも。」
そこで、インターネットで音声加工ソフトを探し早速比較テスト。当時のインターネットは情報をみんなで共有しようというムードもあり、見よう見まねホームページをつくり、音の比較サイトと操作手順を公開。アクセスが殺到し、本を2冊執筆。そして、目の敵にしていたメジャーレコード会社すべてのコンサルティングをするという状態に。

会社創業→すぐ潰れそうになる→新聞一面で電話が鳴り止まなくなる

あるとき、大手印刷会社から「音楽配信を手伝って欲しい」という仕事の依頼。願ったり叶ったりで話を受けるものの、条件は「法人口座をつくること」。ミュージシャンが社長というのはカッコ悪いという謎ポリシーを持っていたものの、こればかりは仕方がない。「1週間でできる会社のつくりかた」という本を買って設立した24歳の冬。
しかし1年後、事業予算が取れなくなったと一方的な事業中止の連絡。残りのお金も払えないと言われる始末。事業と大量のCDを現物支給で手を打ち、自分でやり直すことを決意。
収入もなくなり、広告代理店の仕事を引きうけ、ホームページを作り食いつなぎながら、音楽配信の準備をする毎日。
ある日、自分を見つけてくれた人が新聞社を紹介。取材を受けた数日後、日経新聞の一面に登場。そして、朝から電話が鳴りっぱなし・・。
出資の話だが、何を言われているのかわからない私。USの友人に相談すると、それはベンチャーというもので・・・という説明を受けるものの全くわからず。しばらく放置。
(高卒起業ですし、経営なんていう単語も知らなかったんですよね。)

IT企業に→MSから出資→日本初の音楽配信→ITバブル崩壊

金髪長髪革ジャンも出資者に「そのままでいい」と言われ、赤坂に事務所を移転。
当時は売れない音楽を強制されるミュージシャンにとって活動がしにくい状態。私は「ミュージシャンとリスナーを、過度な商業利用される市場から開放する!」という意気込みで、日本で最初の音楽配信を誓う。

2000年問題で揺れつつ「ソニーより早く始めろ」という号令がかかるなか、MSから出資を受け、日本で最初の音楽配信(著作権が保護された合法のサービスとして)を実現。

しかしすぐにITバブルが崩壊💦例外なく当社も整理対象。正月の初詣の後に株主から呼び出され、売却か解散かの選択を迫られる。年末に収録したテレビ放送が時期を遅れて放送された翌日、合併のプレスリリースを出して非難囂々。「言っていることとやっていることが違う」と言われつつ、30人に30分づつ15時間の面談。事業売却組、リストラ組、合併組の3分割し、私は数億円で売却される事業と共にUSベンチャーの日本法人の役員に就任。

その後、シリコンバレーを往復するものの、のんだくれる毎日。自分の中ではずっと人生のどん底がひたすら続き、ひとつの人生が終わったような感覚、そんな29歳の冬。

地球一周で、社会課題解決にシフト

自暴自棄になって飲み歩いていた頃、居酒屋でピースボートのポスターを見つけ、何かを頼るように説明会へ。
「自分の人生をやり直すには、ピラミッドを見るくらいのインパクトがないと、変えられない」
心が僕にそう決めさせて、前年度末に定年退職した父にプレゼントの意味も兼ねて、二人で乗船。
22カ国104日間の旅の中で、僕は、これまでには感じたことのない複雑な感情に出会うことに。

ビジネスの向こう側で、途上国に大きな影響を及ぼしていること
生活の向こう側で、地球環境が危険な状態にあること
教育が、国の経済や幸福に大きな影響を及ぼしているということ

活動家、社会貢献、国際協力…でも私は、ビジネスで社会を変えたい。
そんな思いを誓い、日本に帰国。

自己成長コンテンツで、月間10万人のサブスクサービス

日本に帰国すると、本屋では「自分を変える○○の法則」といった自己啓発本が平積み。自分そんな本との出会いから新しい世界が広がった経験もあったものの、買って読んだ気になって積んだままになっている「積ん読本」もたくさん。
「その気になった時に、その場でセットして、翌日から、お節介にメールを飛ばして、内容をアドバイスしてくれたらいいのに」
そう思ってすぐにビジネスをつくり、iモードのサービスをスタート。自己啓発というジャンルを理解してもらうのが大変な時代、有名著者を口説きサービスイン。あっという間に10万人の有料サブスクサービスが誕生。

6600人が参加し、22万人が来場した、コモンビートの誕生

その一方で、社会課題のビジネスを模索してる中、地球一周した仲間と共に、船の上で実施したミュージカルを日本で実施することに。東京駅の本屋でNPO法人の経営本を見つけ、みんなに提案し、NPO法人コモンビートを設立。

まだNPO法が出来てまだ間もない当時、助成金があるという噂も聞いて駆け回ったものの、「元気な若者に出せる金などない」と断られ、自主事業でいくことを決断。
まるでベンチャー経営のように、スタッフからお金を借り、それで会場をおさえ、チケット収益で返し、また借りる・・・ということを繰り返して、ようやく3年ほどで借りなくても良い健全な状態に。

若者のニートが問題視されるなか、僕の周りは元気すぎる20歳そこそこの仲間ばかり。「大人の都合の悪いことを、若者のせいにしている」そんな大人を見返してやろう、また「日本人はシャイで表現力がない」なんて言われることも変えていきたい、そんな想いが溢れる。

ミュージカルを通じた社会人教育という活動が、毎回の定員をオーバーするほどに。その後、企業からオリジナルミュージカルの公演の依頼を受け5000人のホールで上演、企業ミュージカルをプロデュースしたり、海外での公演をするなど、色々な形で活動が大きく成長。

設立当初から、最低100年続けるためには、創業者が10年でやめるべきだ、という考えを実行。
これまでに、全国および海外で、6600人が参加し、22万人が来場。まもなく活動も20年。

起業家兼起業支援の道へ

この頃、いろいろな講演や執筆があり、社会起業家を育成するための組織がいろいろと誕生し、メンターなどで起業家育成に関わり始める。

経営者のひとりとして、最も長く関わっているのがHASUNA。創業前からのメンター、途中から株主、役員と変わり、ほぼ常勤となって経営戦略や経営管理を担当。(今は非常勤)

また、森と未来も今年で8年。森林浴の可能性と日本のプレゼンスを高めることを「森」を通じて世界に届けていきたい。

起業家の支援にシフトした理由は、「自分自身が起業を数多くしても、やっぱり社会の課題は解決することはない。」ということから
自分が100の起業するより、100人の起業家と社会を変えたい。
そんな想いから、徐々に起業家支援へシフト。

人材開発業界へ、派遣大手が採用し全国展開

10万人のサブスクサービスを展開していたとき、心理学を元にした検査のアクセスがかなりの割合を占めることに。
当時の組織で、「コンテンツ配信スケジュールが毎回遅れる課題を改善したい」と思っていたとき、脳科学をもとにした診断に従って組織を改善すると、課題が解決。
「これはすごい」
当時、携帯電話にヤフーが参入、iPhoneが出た頃でもあったため、業界の大転換を察知し会社を売却。

診断を展開する会社を創業し、システムを開発し、大手派遣会社の適職診断として売り込みにいったところ採用され、全国での実施が決定。導入支援で全国を回る日々。
ただ、この会社は役員との方向性の違いが徐々に明確となり、私は代表を退くことを決断。

小休止→結婚→子ども誕生→就職→震災

その後、しばらく東京を離れたいと考え、全てを手放すことに。
1年ほど自分を見直す時間をもち、海外にも行き、再び東京に戻ってきて、結婚。その後、第一子が誕生。

手伝っていた研修会社の経営が行き詰まり、自分が売却先を探し事業売却。
売却後の事業支援依頼を受け、代表や役員兼任の了解のもと、40歳手前で初めての社員。上場企業の就職と管理職経験。
事業開発や広報の管理職に就いた半年後、東日本大震災が発生。会社の仲間と8時間かけて歩いて帰宅。

いろいろな活動に影響が出る中、生き方についていろいろと考えるきっかけに。

子育て専念→学び直し→東京から脱出

その後、二子も誕生。ただ、全く寝ない二人の育児に限界を迎え、心身の体調不良に。子育てに専念するため休職、そして退職。
その後、自身の学び直しを模索する中、大学の経営学部を見つけて40歳を過ぎて入学。

子育てを通じ、子どもが自然の中で育つことの必要性、自身の幼少期や心理学を学んだ経験などから、環境の大切さを知り、東京からの脱出を決意。
東京への脱出から25年が経過した春のこと。

累計500人を越える起業家の支援へ

名古屋に戻り、良い出会いを待ちながら一年が経過した頃、たくさんの縁が訪れることに。
社会起業家を支援したいという思いで移住したものの、当時ベンチャー不毛の地といわれた名古屋では難しい現実。それならば社会課題に日頃から触れている女性起業家支援をするのが一番やりがいがある、との想いから経済産業省、愛知県、名古屋市、それぞれの女性起業家支援に関する事業を受託。
そして、地域の起業家支援、金融機関のセミナーなどの依頼をうけ、東京時代から含めて、起業家との出会いが累計で500人を越える。

地域通貨、フェアトレードなど、社会システムへの構築

起業家を支援する中で出会った、鎌倉投信の創業者のひとりである新井さん。独立されてeumoというコミュニティ通貨を始めるとの話に。

2020年、幸せになるための手段としてのお金と定義された腐るお金eumoの、第一号コミュニティ通貨としてフェアトレードコインを開始。

これまで、エシカルやフェアトレード、LOHASやカーボンオフセットなどの事業に携わってくる中で、起業家にとって活動しやすい金融環境や市場環境を変えていきたいと思いで市場づくりに挑戦。

現在は、地域の子育て支援、フェアトレードタウン、国際協力、キャリア教育など、地域の活動が広がりつつある。

感性で育まれるウェルビーイングな社会と、アントレプレナーシップの研究

いろいろな社会課題の事業に携わる中での、一つの結論。

社会課題は、感性の低下が原因

便利や効率が、想像することを阻み、環境に順応していく人間という動物は、徐々に感性というセンサーを使わなくても生きることができるようになってしまった

心理学、EQ、脳科学、ストレスマネジメント・・・それは、人生や経営として自身を助け、そして事業としてコミットメントをしてきた人類の知恵。

人生100年時代、折り返し地点にいる私は、これを、次世代にどう受け継いでいけるか?ということを考えるように。

子育てという環境でいろいろと学ぶものも大きく、12年ほどの実践期間の中で、得られたものも大きい。
そんな中で、子どもから大人までが、常に変化をし続ける社会の中で、感性を育みながら生きぬくチカラが必要。
それが、起業家が身につけた「アントレプレナーシップ」というものであり、これは開発できるという結論に達し、研究をすることに。

また、ソーシャルや社会起業家、エシカルやSDGsという、社会を良くしたいというキーワードが溢れる中で、すべてがちょうど良い状態をどのように不可分でイメージ出来るか?という視点で感性はとても重要であり、そこにウエルビーイングという定義が、自身の目指してきた世界にピッタリと当てはまることに。

ウェルビーイング x アントレプレナーシップ

一旦足を止めつつ、再構築して、そして新しいチャレンジを開始。

感性で育まれるウェルビーイングな社会に向け、アントレプレナーシップを通じて、新しい時代を切り開いていく活動。
それがたどり着いた現在の位置。


長いプロフィールを読んでいただき、ありがとうございました!

個人HPはこちらです。

私にできることがあれば、ぜひお声がけください!


面白そうなヤツだなと思ったら、ぜひフォローをお願いします!
いろいろと発信していきたいと思います!

この記事が参加している募集

私の仕事

仕事について話そう