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大企業で働く意味が問われる時代が来た

「#はたらくってなんだろう」のコンテストに寄せて、比較的大きな組織で働いている私としては、大企業で働くことの意味を考えることにする。

まず、現代は大分業時代である。業務を細分化し、専門化することで(特に大量生産の)効率を上げている。しかし一方で、細分化された業務につく人々はその企業全体が何をしているのか体感しにくくなる。そのような経験がある人や、仕事は生活のためにするものと割り切っている人なら、当コンテストの開催背景に書かれている次のような文章に、多少なりとも違和感を感じるだろう。

Panasonicは「はたらくこと」においてミッションドリブンという考え方を提唱しています。ミッションとは「私が大切にして生きたいこと」。そのミッションを自分のパワーの源にしてはたらく。そんなミッションドリブンな働き方を広げていきたい、という想いを込めています。

ミッションドリブン。そう、もし働くことの意味を子供に教えるとしたならば、それは誰かの役に立って自らの存在意義を確かめるためである。しかし大企業には、本来のミッションではないことが仕事の駆動源になっていると感じられる状況がいくらでもあるだろう。大量生産、大量消費の時代も終わった。GAFAが出現して、これら大企業の収益は急激に伸びたけれども、それは単に出現前に存在していた市場をGAFAが吸い上げたに過ぎず、世界全体のGDPの成長に貢献していないという指摘もある(山口周氏『ビジネスの未来』P.105)。

では巨大企業は、現代では企業の多様性とそこで働く人々の働く意義を失わせる有害な存在に過ぎないのか?と言えば、そんなことはないのではないか、というのが私の意見である。

人類は近代から劇的な経済発展を遂げて、過去数百年に渡って物質的に豊かな社会を築いてきた。ここへきて我々は、現代に至るまでに払った数々の犠牲を反省し、倫理的・文化的かつ持続可能な社会という世界共通の目標に辿り着いたように思われる。大企業はこの目標に資する活動を行う責任があり、世間からも強いプレッシャーを受けている。
例えば次のようなニュースリリースを見てみよう。

このようなことは、余裕のない中小企業の集団が取り組むことはできない。余裕といえば、教育環境なども該当するだろう。社会に出たことがない若者が就職し、そこで十分な教育投資を受けることができるのは中小企業よりどちらかといえば大企業のほうだ(若者だけでなく昨今ではリカレント教育やスキルアップのための日常的な研修なども該当する)。
また次の記事などでデービッド・アトキンソン氏が主張するように、大企業の生産性は中小企業のそれよりも高い(まぁ当然といえば当然だが)。

大企業はテコのようなものであると私は思う。テコは、小さい力を大きな力に増幅させることによって重いものを持ち上げる。個人の力は微力だが、企業というシステムを通すことで大きな出力を得る。世間では、サラリーマンの価値はその高給より低いのだと言われるが、それは大企業がテコの役割を果たしている証明であって何ら残念なことではない。

しかし一方で、企業は企業の論理で進むということもまた事実である。その高給を維持し、現システムの運用や拡大への投資をしていくために高収益をあげ続けなければならないし、自社の事業と競合する事業は普通はできない。つまり、大企業が手を出しづらい社会問題は必ず存在するのであって、それを発見した人は明確な課題感を持って新事業に取り組むことができる。

とはいえそのようにして始まったスタートアップも、いずれは大きな組織にならざるを得ない。一定規模の企業にいてその組織が発展するということは、組織の進化の道筋を知ることであり、テコの正体を知ることであり、社会への責任を果たす立場になることである。だから一定規模の企業に勤めている人は、その期間に勉強できることがあるはずだ。それができれば企業における細分化された仕事の意味も多少は実感できるようになるだろう。

そういえば最近、NHKの「100分で名著」でマルクスの資本論が取り上げられている。このコンテストの主題を考えるのにぴったりの内容だと思うが、全4回のうち最終回は何とコンテストの締め切り後である。ただし第3回までの内容で、キーワードと思われるものがあったので軽く触れておく。
それは「構想と実行の統合」と、「ブルシット・ジョブ(クソどうでもいい仕事、と翻訳されるのが一般的らしい)」である。

前者は次のようなことだ。分業やイノベーションによる効率化により、構想を行う仕事と実行する仕事が分かれた。しかし実行ばっかりしていると本来の目的がよく分からなくなるから、これらは再統合すべきだという。後者はマルクスではなく人類学者デヴィッド・グレーバーの造語であり、本来の目的に照らして不必要な仕事を指す。

どちらも企業人にとっては耳の痛い話だ。前者は小規模組織よりも大企業で見られやすいだろうが、個人的には昨今やたらともてはやされているDX(デジタルトランスフォーメーション ≒ デジタル化、自動化)なるものも、とりあえずやればいいというものではないかもしれないな、という意味で捉えた。時間で縛る働き方を前提としておきながら仕事を効率化するということは、まかり間違えば、余った時間をブルシット・ジョブに当てなさいと言うのと同じになるのではないか。

 サラリーマンが生活のため仕方ないと言って平然とブルシット・ジョブを受け入れ、毎日遅く帰ってきて疲れ切った顔をしていたら、いくら子供に「仕事って人の役に立つことだよ」と教えても企業勤めの意義が伝わるわけはない。ブルシット・ジョブは、大企業だけでなくどこにでも存在しうるが、大企業は体力があって収益効率が高いためにブルシット・ジョブが一定程度染み付いていても生きていけるのでたちが悪いのだ。

なので、染み付いたブルシット・ジョブはあっても「給料にさしたる影響はないから」放置するというのではなく、それに気づいたら黙って撲滅に向かうクセをつけたほうがいいだろう(ノン・ブルシットジョブに転換できなければさっさと帰れば良い)。
そして様々なスキルを持った多くの同僚やステークホルダと連携して本来の課題解決に向かえるのが大企業の醍醐味である。社内で人を紹介してもらうのに何の遠慮も追加の人件費もいらないし、社外では顔がきく。それが会社の力だったとしても、課題解決の役に立つなら、そんなのはどうでもいいことだ。

大企業には大企業の得意分野と役割があるように、中小企業には中小企業の、非営利団体、公的機関、教育機関、個人などにも同様にそれぞれの得意分野と役割がある。最近では企業勤めをしながら個人で仕事をするなど掛け持ちしたり、ボランティアに取り組んだりする人がニュースになっているが、これはやはり業種や組織形態による役割の違いがあってこそのものだろう。
道徳経済合一を唱える渋沢栄一が事業会社、経済団体、福祉・医療、教育、外交、科学研究所など横断的に関わったことを考えれば、組織形態を分けること自体も分業の一種だと思い当たる。副業等により複数の役割を持つことで視野が広がれば「構想と実行の統合」に繋がり、自分は何をしているのかと悩むことも少なくなるはずだ。

下記の記事などを読むと、仕事は本来楽しいものだということがよく分かる。ボランティアは自分のペースで、自分の裁量で自主的に行い、支払いによって感謝が清算されず、給与や地位などの内部競争、様々なブルシットなことから開放された労働である。

営利企業の限界はあっても、個人的に大企業には労働をなるべく純粋なものにしていってほしいと思っているし、それができるところが大企業の魅力なのだと思っている。もちろん法整備なども必要だろうが、社会や国からの圧力を受けて初めて、しぶしぶ組織規定を変更するいつもの順序は本当に格好悪い。大企業が率先してやるべきだ。

企業は利益なしに存続できないし、個人も収入がなければ生きられないが、自分の人生だけ逃げ切ればいいってものではない。だから利益やGDPだけでなく様々な指標を見なければならないし、様々な事柄のバランスを考えつつも大勢の賛同を得られる分かりやすい戦略を導き出す必要がある。そうしたことは余裕のある大企業にしかできない。

大企業で働く難しさや社会的責任は以前より増しているが、だからこそスリリングな時代に突入していると私は思う。

ではでは。

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