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万葉を訪ねて ―序の12 キヲマチテ―

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旅は始めれば必ず終わらねばならない。大和国を丹念に巡ってひと月あまり、まだ見ていたい気持ちはあるが一応のピリオドを打った。

ふと、帰路は少し道を逸れるが伊勢神宮に参ろうかと思い付いた。恐らく今回を逃せば2度とない機会である。



季節は汗ばむ夏の皐月であった。松坂に泊まってから伊勢神宮を詣ったのだが、このとき真淵の観察眼は「商都」松坂の繁栄ぶりを見逃さなかった。

参詣を終えてまた松坂に泊まった。理由は単純である。これほどの繁栄ぶりならば珍しい古書などが入手できるのではないかと期待してのことだ。

しかし、何泊か重ねて探し回ったものの結局大した古書に巡り会えずアテが外れた。もう江戸に帰ろうと決心した25日の夜、短期間で懇意になった古書店の主人が真淵の泊まる旅籠に来て、面会を願う者がいると告げた。

同行の村田春郷・春海の兄弟はもう休ませていたので、部屋には真淵ひとりが居た。そこに入ってきた男は、真淵の著書「冠辞考」を携えて目の前に正座した。


行灯の薄明かりの中、ふたりの対話が始まった。

まず男は、己は舜庵と言い学問に志す34歳の医師であることと、この冠辞考を熟読してその卓説に敬服したことを説明した上で、入門を希望した。真淵は男の話しぶりからその学識の尋常でないことが容易に知れたので内諾を与えたが、正式の入門手続きは村田春海の指示に従うようにと付け加えた。

つぎに男が古事記を研究する計画があることを明かしたので、真淵は古事記のような古代の心を伝える書物を研究するためには、まず古語の意味に精通しなければならないことを諭し、古語の研究に最も役立つのは万葉集の味読であるから、そこから始めるべきだと奨めた。

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詳しく言えば次のようになる。

古意を得ようとする場合は、その前提となる古言を得ねばならず、古言を得る方法としては万葉の研究が最も適している。ひとはみな高い所を得ようとして高い所から始めるが、そのやり方では低い所さえ得られない。挙げ句の果てには自分勝手な根拠のない憶説を吹聴する者すらいる。
学問の道に近道はない。低い所から始めて段々と高い所へ上ってゆくような、地道な努力によってのみ大成するものだ。そうした地固めもなしに古事記に取り組んでしまうと結局徒労に終わるだろうから、まずは万葉の研究から始めなさい。
かく言う私も古事記の古意を明らかにしたい気持ちはあったが、この通り年老いてしまったので間に合いそうにない。あなたはまだお若いから地道な努力を怠らなければ必ずや目的を果たすだろう。


それならばと男は万葉研究の指導を願い、医師として生計を立てているがために松坂を離れられないと言う男に対して、真淵は文通による指導を約束した。今で言う通信教育である。

男は突然の訪問を快く容れて、学問についての示唆と入門の内諾すら頂戴できたことを深く謝して退出した。


言うまでもなく、この男は本居宣長である。

この夜のことは「松坂の一夜」として名高い。大正末期から昭和の敗戦にかけての小学校の国語教科書に、佐佐木信綱博士の同名の文章が載ったことで広く知られることになった。

「教科書に載った松坂の一夜」と検索すればインターネット上で読むことができる。小学生が読むには高級過ぎやしないか、と思われる内容だが読ませる美文と言えよう。ちなみに種本は宣長晩年の回顧録「玉かつま」である。

宣長は翌年の明和元年甲申睦月に正式に入門すると同時に古事記伝に着手し、35年の歳月を経て69歳の年に完成した。真淵は大和路の旅の6年後の明和6年己丑に没したのでふたりの交流はわずか6年間ということになる。対面こそ一夜限りであったものの、この夜に約束された文通による万葉の指導ないし共同研究は絶え間なく異常な濃密さを伴って続けられた。


さて、この序論は真淵の生涯の解釈が目的であり、事実を羅列するものではないとは序の2で宣言したことだ。ただ宣長のことについては小林秀雄の名著があり、残念ながらそこに語り尽くされてしまっている観がある。それをそのままなぞるのは無益であるから、主にふたつの論点に注目して感想を述べようと思う。


第1に「宣長は冠辞考をどう読んだか」という問題がある。

冠辞考は枕詞の論であり、五十音順に枕詞を整理してひとつひとつに語義と用例を付した辞典様のものであるが、真淵にとっては万葉集に関する最初の学術的な著作であった。

真淵は枕詞を「ただ歌の調べの足らはぬをととのへるより起こ」った修飾辞であると定義する。

これだけ見ると機械的な冷たい機能だけのように思えるが、何故この修飾辞が必要であったかと言うに「思ふことひたぶるなれば言足らず」という古代の歌人の健康的な言語感覚のためだと言うのである。

だから枕詞を単に修飾的に用いている後世の歌と、古代の歌とは明確に区別できる。後世の歌は「ぬばたまの」が「黒」にかかるという規則を踏襲しているだけで「感情が率直すぎて五七調のリズムにならないことを厭い必要に駆られて」枕詞を置いているのではない。

むしろ雑多に過ぎる感情は歌に入りきらず、万葉以後の日本文学史は詩から散文(歌物語)へと、世界文学史と大体同じ方向に歩を進めたのである。


宣長は冠辞考を読んだ経験を次のように述べている。

一読しても全く信ずる気が起こらず、2度読むとそうかなと納得されることが増えてきて、3度読むとそうとしか思われなくなった。そうして見ると契沖の説すら不十分なものだと思われてきた、と。

契沖は宣長が20代のころ最も影響を受けたひとだ。これは意図せずに宣長もまた「味わうことに徹底した」ひとであることを明かしている。

冠辞考を繰り返し読むうちに、その説に同意せざるを得なくなった宣長は、さらに考えを進めてこの著者はどうしてここまで古代の精神に肉迫できたのかを想像した。すると、真淵が万葉集を読んでいる「ひたぶる」姿が幻視されて、その没我の精神に感動したのである。

宣長は、ただ単に己の知識を増やすために学び学問が己のモノになっていない者を「物しりびと」と呼んで心の底から軽蔑していた。

宣長にとって学問とは「これを信じ好み楽しむ」ものだった。他人に誇示するための学問ではなく、己のために糧とするためにする学び。味わうことに徹した学び。

契沖や徂徠といった過去のひとを除いて、それをしている者は己の他に見当たらず孤独であった。冠辞考をきっかけに出逢った真淵は、現に生きて応答することができるこの道の唯一の先達だったのである。


第2に「真淵にとってこの師弟関係はいかなる意味を持ったか」という問題がある。

まずこの機会に言明しておきたいことは「本居宣長の師・賀茂真淵」という国文学上の通念がいかに真淵「軽視」に繋がっているかという、平凡な逆説についてである。

宣長が大学者であることは自明であり真淵がその師であることは事実であるが、それとは別個の問題として「宣長という主役の登場を準備した脇役としての真淵」という、多くの人々が無意識の内に採用している考え方は誤っている。真淵は宣長の「予徴」ではないのである。


「イスラエルの声は、現代の世界においてはせいぜいのところ先駆者の声として、旧約聖書(Ancien Testament)の声として聞かれているだけです。しかしわれわれユダヤ人には、ブーバーの言葉によれば、それを遺言(testament)と考え、旧いもの(ancien)と考えるいかなる理由もありませんし、われわれはそれを新訳の展望のなかに位置づけることもしません。ユダヤ教を説明する、別の方法もあるのです」(レヴィナス「困難な自由」所収の「成年者の宗教」より 合田正人訳)


これは現代フランス哲学者エマニュエル・レヴィナスが1957年にモロッコで行われた宗教会議においてキリスト教徒およびムスリムに向けて発した言葉である。

よく符合していると連想されたので引用した。

私たちも真淵の学問を宣長へ渡した遺言と捉える必要もなければ、宣長の学問の展望のなかに真淵のそれを位置づけることもしない。ふたりの学問はそれぞれが聖典と信じた書物の味読経験によって生まれたものであって「単独者」の学問なのである。

したがって真淵の学問を学ぶ際には通説を一旦忘れて先入見なしに読み、そして考えるという「別の方法」を採らねばならない。


真淵から見て宣長はある程度完成された弟子だった。松坂の一夜の前に宣長は「物のあはれの説」を紫文要領に書き込んでいた。むろん宣長から見ても、真淵はほぼ完成された師だった。万葉考の序論部分にあたる万葉集大考は脱稿していたのである。

己の学問が完成した者同士の交流が意味する所は、普通の師弟関係とは異なり双方向の影響関係だったということだ。ふたりは年齢こそ33歳も離れているが真の意味で共同研究者だった。宗武公や在満のような浅い意味ではない。真淵と宣長は資質においては相当の隔たりがあるが、すでに見たように学問への根本態度において一致していたからである。


偶然が重なりあってはじめて可能になった宣長との出逢いと交流は、真淵の晩年を飾る刺激的な出来事となった。真淵は最後の旅の予期せぬ収穫に満足を覚えながら北八丁堀の自宅に着いた。その証拠に、江戸に帰って間もなく弟子たちを集めて宣長について語りささやかな宴会を催したという記録も残っている。


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